最後に「なぜ鹿島神宮と中臣氏が結びついたのか?」について考えよう。もういちど、「常陸国風土記」の 649 年の「神郡」設置の記述に戻る。
大乙上中臣□子・大乙下中臣部兎子等が、総領高向の大夫(まえつぎみ)に願い出て、下総の国の海上(うなかみ)の国の造(みやつこ)の所轄である軽野から南にある一つの里と那賀の国の造の所轄である寒田より北にある五つの里を割いて、別に香島の大神の鎮座する郡(こほり)を設けた。その所にいらっしゃる天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社の三社を合わせて香島の天の大神という。これによって郡に香島と名をつけた。
常陸国風土記 小学館「日本古典文学全集 5」口語訳
「神郡」設置を願い出たのは「中臣(なかとみ)氏」である。ここに出てくる「総領」というのは、豆知識にも書いたが「国司(くにのつかさ)」の事である。「日本書紀」に大化元年(645 年)に東国への「国司」派遣の詔の記述があり、さらに「常陸国風土記」の冒頭部分に
浪速の長柄の豊崎の大宮で天下をお治めになった天皇(孝徳天皇)のみ世になって、高向の臣、中臣の幡織田(ほとりだ)の連等を遣わして、足柄の先から東にある国を統治せしめられた。
常陸国風土記 小学館「日本古典文学全集 5」口語訳
と書かれており、国史のメンバーに「高向の臣」とともに「中臣の連」の名前も見える。ここで、「高向」「中臣」は「氏(うじ)」の名前であり、[臣」や「連」は身分を表す「姓(かばね)」である(豆知識3 参照)。

高向氏は「臣(おみ)」であり、中臣氏は「連(むらじ)」なので一段低い政治的地位である。そもそも「連」は「伴造(とものみやつこ)」であり、地方にある「部(べ・とも)」を率いる中央の中下層の豪族である(豆知識4 参照)。「中臣氏」は「氏」の名前の中に「臣」という字が入るのでとてもややこしい。大和岩雄氏は「日本古代試論」に、「中臣氏が中臣連姓を名乗ったは欽明朝とされている。延喜六年六月、大中臣氏が朝廷に提出した『新撰氏族本系帳』によれば、欽明朝のとき中臣常盤が始めて中臣連姓を賜った」と書いている。欽明天皇の在位は 539 ~ 571 年の 32 年間である。このときに、「姓」の「臣(おみ)」と紛らわしい「中臣(なかとみ)連」となった。
「中臣(なかつおみ)」という「姓」があったと大和氏は言う。これは、神と人との「中」をとりもつ役である。大和氏はさらに「中臣(なかとみ)」の賜姓について、「よくも連姓の豪族に対する賜姓の際に、臣の字を氏につけて賜ったものと思う。もっとも『中連』ではおちつかない感があって、神人の間を仲介をする『家臣、臣下、召使』の意味で、中に臣をつけるように中臣氏側が運動して功を奏したのであろうか。かくて、連姓の階層にありながら臣姓の階層にまぎらわしい、一段上の階層に見せかけることに成功したかの印象を与えられる。」
では賜姓以前は何だったのか? 「『尊卑分脈』では、常盤に、『始而賜中臣連姓 本者ト部也』と註がある。また『大中臣氏系図』(『続群書類従』)では、常盤に『始而賜中臣連姓 本者ト部也。中臣者主神事宗源也』とある。中臣氏は自からの系譜にはっきりと『本はト部なり』としている」と大和氏は書いている。
「尊卑分脈」は室町時代に書かれた諸氏の系図集、「続群書類従」は江戸時代後期に塙保己一が編纂し刊行した叢書である。日本大百科全書の「中臣氏」の項に系図が出ているが、この「常盤」は「中臣鎌足」の三代前の人物である。そこに「本はト部なり」と註が書かれているというのだ。「ト部」は「部民制」における職業部の一つで、「卜占」による吉凶判断(いわゆる亀卜法)を行う「部」である。
大和氏によれば、「中臣(なかつおみ)」は「神となった天皇と、人との間をとりもつ役」であり、中臣連(なかとみむらじ)や忌部連は「神事の細部に与る」祭事下請人であった。中臣連はト占の技術で、中臣(なかつおみ)をたすけたのであり、忌部は祭具や神衣などをつくる技術者の集団である。
「ト部」については「常陸風土記」の「香島郡」の項に次の様に書かれている。
また、毎年の四月十日に、祭りを行って酒宴をする。ト部氏の同族は、男も女も集まり、何日も何日も幾夜も幾夜も、酒を飲み楽しみ歌い舞う。…(中略)…神社の周りは、ト部氏の居所である。
常陸国風土記 小学館「日本古典文学全集 5」口語訳
このように鹿島にト部はいた。さて冒頭の引用であるが、「神郡」設置を申し出た中臣氏は「大乙上中臣□子・大乙下中臣部兎子等」となっていて、この「大乙上」「大乙下」は冠位である。最初の名前は脱落があるが、二人目は「中臣部」とあるから、中央の「中臣氏」ではなく、常陸にいる「中臣部」の人間(すなわち部曲)である。鹿島神宮の大宮司家である「中臣鹿島氏」の系図を見ると、「兎子」の名が出てくる。「兎子」と同世代にあたる嫡流の「国子」の子の「富足」が鹿島社の「祝(ほうり)」となる。「祝」とは神社に奉仕して、祭祀に従事した神職の一つである。ということは、それ以前は大和氏が言うように「祭祀」自体を執り行うのではなく、ト占を行う集団だったのかもしれない。さらにこの「富足」の子の「武主」が「中臣鹿島連」を賜姓されている。続日本紀によれば 746 年のことである。
これらの事項に、中央での中臣氏の状況も加えて、一覧表に整理してみた。
- 欽明朝(539 ~571 年)のとき、始めて中臣連姓を賜わる(それより前はト部)。伴造として「中臣部」を統率・管掌
- 推古 (592 ~ 628 年)・舒明 (629 ~ 641 年) 朝のころから中臣氏は大夫 (まえつきみ) として政治の中枢に参加している
- 645 年 乙巳の変、中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我馬子を殺す。中臣鎌足が政治の実権を握り、大化の改新を始める
- 645年 中臣連幡織田が東国国司の一人に任命される
- 649 年 鹿島が「神郡」となり、「神戸」が 8 から 50 戸に増える ⇐中臣部兎子らによる「神郡」の申請
- 662 ~ 671 年のどこか 神宮が建設される(中臣部から「鹿島社祝」が出る)
- 710年 藤原不比等、鹿島から「春日大社」に「武甕槌命」を遷す
- 711~712 年 「古事記」作成
- 681~720 年 「日本書紀」作成
- 720年 藤原不比等死去
- 746年 3 月に常陸国鹿島郡の中臣部 20 戸が中臣鹿島連 (むらじ) と改氏姓(続日本紀)
- 768年 藤原氏、春日大社の社殿を造営し、第一祭神を「武甕槌命」とする
冒頭の問い「なぜ鹿島神宮と中臣氏が結びついたのか?」については、「中臣鎌足」が常陸の「鹿島中臣氏」の出身だという説(鹿島神宮の南西に「鎌足神社」がある)もあるが、上記の流れから考察すると、特に「鎌足」が鹿島出身である必要は無い。「伴造」の性格上、中央の「中臣氏」には鹿島の「中臣部」から情報がはいるはずなので、「鹿島」という地の重要性が把握されていたであろう。また、すでに考察したように、祭儀に関わる神ではなく、「ヤマト王権の成立にもっとも貢献した氏族であることを象徴する神」を氏神として持ちたかった。これらが動機となって、「中臣鎌足」が動いたのである。
では、鹿島神宮設立以前はどうだったのか? これに答えるために、前にちらっと述べた「元鹿島の宮」と称する「大生(おう)神社」について調べてみようと思う。その前、つまり北浦を渡る前に、鹿島神宮の摂社である「坂戸神社」「沼尾神社」を訪ねてみよう。