謎のオオ氏を探せ! 6.常陸国におけるオオ氏の活動②

 前回、「黒坂命」の武勇伝について書いたが、そのすぐ後につぎの文章が書かれている。

〔茨城の国造の遠い祖先、多祁許呂(タケコロ)の命は、息長帯比売(オキナガタラシヒメ)の天皇(神功皇后)の朝廷に仕え、品太(ホムダ)の天皇(応神天皇)のお生まれになった時までお仕えの事にあたった。多祁許呂の命に、子が八人あった。次男の筑波の使主(おみ)は、茨城の郡湯坐の連らの遠い祖先である。〕

日本古典文学全集〔5〕常陸国風土記

「黒坂命」が茨城の国栖たちを滅ぼしたので、「茨城の国造の遠い祖先」である「多祁許呂(タケコロ)」は「黒崎命」かと思いきや、「日本古典文学全集〔5〕常陸国風土記」の註を見ると、「『姓氏録』大和国神別に『三枝部(さえくさ)の連。天津彦根の命の十四世孫、達己呂の命之後也。』他に、奄智造(あむちのみやつこ)・和泉国神別の高市の県主にも記事がある」と書かれているではないか。「姓氏録」とは正式名称が「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」という名の平安時代に書かれた系譜書である。これには「タケコロ」は「オオ氏」ではなく、「天津彦根(アマツヒコネ)命」の十四世孫とある。前回の『国造本紀』を調べてみるとさらに驚くべきことが分かった。「タケコロ」を中心に多くの国造が作られているのだ。

  1. 石城国造:志賀高穴穂朝御世。以建許呂命。定賜国造。(石城国:福島県浜通りのうち、いわき市北半分から大熊町にかけての地域)
  2. 師長国造:志賀高穴穂朝御世。茨城国造祖建許呂命児、宮(意?)富鷲意弥命。定賜国造。(師長国:神奈川県大磯町と二宮町周辺)
  3. 須恵国造:志賀高穴穂朝。茨城国造祖建許侶命児、大布日意弥命。定賜国造。(須恵国:千葉県君津市、木更津市・富津市の一部)
  4. 馬来田国造:志賀高穴穂朝御世。茨城国造祖建許呂命児、深河意弥命。定賜国造。(馬来田国:千葉県袖ケ浦市全域、木更津市の大部分、君津市と鴨川市の一部
  5. 道奥菊多国造:軽嶋豊明御代。以建許呂命児、屋主乃(刀?)禰。定賜国造。(道奥菊多:福島県いわき市の南部を中心とする地域)
  6. 道口岐閑国造:軽嶋豊明御世。建許呂命児、宇佐比乃(刀?)禰。定賜国造。(道口岐閑:茨城県日立市助川)
  7. 石背国造:志賀高穴穂朝御世。以建許侶命児、建弥依米命。定賜国造。(石背国:福島県中通りと会津地方に当たる
  8. 茨城国造:軽嶋豊明朝御世。天津彦根命孫、筑紫(波?)刀禰。定賜国造。(茨城国:茨城県石岡市・笠間市、および水戸市・つくば市・土浦市の一部)
  9. 周防国造:軽嶋豊明朝。茨城国造同祖、加米乃意美。定賜国造。(周防国:山口県東部)

 まず、「建許呂命(タケコロノミコト)」が 1 の石城国造になっている。続いて、「タケコロ」の子が 2 師長国造、3 須恵国造、4 馬来田国造、5 道奥菊多国造、6 道口岐閑国造、7 石背国造となり、8 の茨城国造は「タケコロ」の名はないが、『常陸国風土記』に「タケコロ」が茨城国造の祖とあることから、「タケコロ」の子と思われる。同様に 9 の「周防国造」も「タケコロ」の子と見てよいだろう。これで 7 人である。『常陸国風土記』に書かれる「筑波使主」を加えれば、8 人の息子が全部登場したことなる。なお、「志賀高穴穂朝」は「成務天皇」、「軽嶋豊明朝」は「応神天皇」である。

一方、以前見たように、『古事記』は「オオ氏」の祖先の「神八井耳命」を陸奥磐城国造(すなわち石城国造)の祖先であるとしており、『国造本紀』と異なる。つまり岩城国で二系列の国造が存在することになるのだ。『常陸国風土記』では「黒坂命」は陸奥の国まで遠征し、平定したと書かれているし、「黒坂命」が亡くなったところは「石城国」の手前の「多珂国」であった。この線で考えれば、この「陸奥国」が「石城国」であり、「黒坂命」=「石城国造」としても不思議はない。どういうことだろう? いろいろ調べていくうちに、「オオ氏」の系図があることを知った。

 系図集もいろいろ発行されているようだが、新しいところでは『古代氏族系譜集成』上中下 宝賀寿男/編著 古代氏族研究会 1986 がある。そして、この本が千葉市の「千葉県立図書館本館」にあることがわかったのである。そこで、早速、中世「千葉氏」の居城だった「亥鼻城」の隣にある図書館へ出向いた。書棚にあったのは、ずっしりと重いとても立派な本だった。なんと系図の部分は活字ではなく手書き文字である。上巻の第 2 章が皇族系氏族で、そのトップが「多臣」である。ついでに、「天津彦根命」系の「タケコロ」の系図も調べた。これは中巻の第 2 章第 2 節「三上氏族」にまとめられいる。これを基に「オオ氏の略系図」を作ってみた。

図6-1 オオ氏略系図(『古代氏族系譜集成』上中下 宝賀寿男/編著 古代氏族研究会 1986を元に筆者作成)

 この系図はこれから何回も使うことになるが、ここでは今回のポイント部分だけを説明しよう。「神八井耳命」の五世孫に「タケカシマ」が出てくる。四人兄弟の三番目であり、「建黒坂命」は弟になっている。そして「建黒坂命」に註がついていて、「又、武許呂阪命(タカコロサカノミコト)」とあり、「磐城(石城)国造」・「於保磐城臣(オホイワキオミ)祖」としている。この理由については次の様に説明されている。「『国造本紀』では「建許呂命」とある。この表現だと、凡河内直(オオシコウチノアタイ)の族建許呂命と混同しやすいが、石城国造から後世於保磐城臣が出ていることからも、多氏の一族であることは違いないと考えられる。」この系図では『国造本紀』の石城国造の「建許呂命」は、「武許呂阪命」の間違いと見ているのである。一方、『古代氏族系譜集成』の別の註には、「『阿蘇家略系図』では、武恵賀前命の子に武稲背命、又曰建稲邑命をあげ、その子に建許呂阪命をあげている。しかし、武稲背命は近親の武五百建命の子建稲背命と類似している。」さらに、「『皇胤志』では、建借馬命、仲臣子上命、建許呂阪命の三人を兄弟としており、これも魅力がある。」と書いている。

 系図の註に書かれる「於保磐城臣」について調べていくと、「いわき市立いわき総合図書館」からの「丈部( はせつかべ)」についての質問に対する回答に出会った。これには次の様に書かれている。「『丈部氏』の文献上における記載は、勅撰史書である六国史第 2 の『続日本紀』巻第 29 の神護景雲 3 年(769)3 月 13 日に、陸奥国人に対する初めての一括賜姓において見ることができる。本県域では、10 郡 12 名の賜姓者が確認され、大部分は郡の役所である郡家の郡司(大領・少領)とみることができる。そのなかで「丈部」は県内 6 郡において確認され、そのほとんどが「阿部臣」を与えられている。しかし、磐城郡の丈部山際だけは「磐城於保臣」が与えられている。」先ほどの「後世於保磐城臣が出ている」の意味はこれだと思う。
「丈部氏」は『国史大辞典』には次の様に書かれている。「杖部とも書く。(中略)中央に服属した地方豪族から中央に貢進される部民で、大王の勢力の直接強く及んだ地域に多く、東国に多いのもそのためである。令制の駈使丁(くしちょう)の前身で、宮廷で雑用に使役された民とする説と、令制で駈使丁より上級の民、使部の前身で、大王に近侍し、杖を持って宮廷の警護、または雑用に使役され、さらに、大王の命を地方豪族に伝達する使者ともなった民とする説とがある。中央に服属して国造、のちに郡司などになった地方豪族の多くが、丈部氏としてこの部民の伴造となり、その下にあった民が丈部となり、その一部の民が中央に貢進された。その民が居住したところが丈部郷となる。丈部氏は阿倍氏と同祖とするものが多いが、大春日氏・紀氏などと同祖とするものもある。」

 陸奥国の有力豪族に対する 769 年の一括賜姓において、他は「阿部氏」であったのに、磐城郡のみは「於保(オホ)氏」を賜ったというのである。これは「磐城郡」がずっと「オオ氏」が支配する地であったことを示すものであろう。今回はここでひとまず置いて、次回、同時に持ち帰った「天津彦根命」系統の系図についても検討してみよう。

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