
前回は紀元前 ~ 2 世紀頃までの状況を見た。今回はそれ以降、弥生後期から 6 世紀の古墳時代後期までの鉄の古代史について調べよう。
- 3 ~ 4 世紀:【中国】220 年「後漢」が滅び、「三国時代」(魏・呉・蜀)に入る。265 年「西晋」、「魏」を滅ぼし、「十六国時代」に入る。【朝鮮】「原三国」、4 世紀からは「三国(高句麗・百済・新羅)時代」。「楽浪郡」が 313 年 に「高句麗」によって滅ぼされ、「漢」による朝鮮支配ほぼ終焉。346 年に「百済」、356 年に「新羅」が興る。391 年頃、「倭」が海を渡り、百済・新羅を破り、高句麗と戦う(好太王碑)。製鉄の開始は 3 世紀末とされる忠清北道「石帳里遺跡」(百済)がもっとも古い。 鉄関連の遺構が A・B 区に分かれて存在し、A 区で 17 基、B 区で 21 基の製鉄炉と鍛冶炉・溶解炉・鉄鉱石焙焼炉などの関連遺構が発見されている。A 区の 4-1 号製鉄炉は長さ 2.5 m、幅 0.5 m、高さ 0.2 m の長楕円形、4-2 号製錬炉は長さ 1.1 m、幅 0.5 m、高さ 0.1 m 程度の楕円形。原料は鉄鉱石とされる。A 区が 3 ~ 4 世紀、B 区が 5 世紀代と推定される。内径 6 ~ 7 cmの大口径の土製羽口が出土し、すべて還元炎焼成で焼かれた非常に硬い焼きで、L 字状に先端部が曲がった作りのものもある。大規模な送風装置を構築した痕跡は確認されていない。【日本】弥生時代後期~古墳時代前期。239 年倭の女王卑弥呼が魏に遣使。現在のところ確実な鍛冶遺構は、古墳時代初頭(3 世紀中頃)とされる「博多遺跡群第 59・65 次調査地点」が最古の例。製鉄遺跡としては広島県三原市「小丸遺跡」が最古とされる。製鉄炉が 2 基検出され、製鉄炉の炉床は、直径 50 cm、深さ 25 cm のに炭粉を含む黒色粘土質土が詰まった円形の浅い擂り鉢状の穴で、左右に直径 40 cm、深さ 5 cm、直径 60 cm、深さ 15 cm 程度の鉄滓が詰まった円形の穴が検出された。中央の炉床からの木炭が 8 世紀代、左右の排滓穴からの木炭が 3 世紀代との結果、これと南側斜面出土の弥生土器から 3 世紀代の製錬遺跡とするが、疑問の声も上がっている。また、製鉄遺跡は確認されていないが、熊本県阿蘇盆地の北西部には、一遺跡で数百点から千点以上という大量に鉄器を出土する弥生時代の集落遺跡が分布し、これが「阿蘇リモナイト」の分布域と一致しているため、原始的な製鉄が行われていたのではないかという説がある。
- 5 世紀:【中国】十六国・東晋~南北朝時代。【朝鮮】三国時代。400 年「高句麗」、「新羅」を救援し「倭」を撃退。404 年「倭」、「帯方」に迫り、「高句麗」と戦い大敗。475 年「高句麗」が「百済」を攻め「百済」は熊津に都を移す。新羅にあたる慶州市「皇南大塚墳」では約 1300 点の「鉄鋌(てってい)」(鉄の板、鉄製品を作る際の素材)が出土している。【日本】古墳時代中期。413 年「倭」、「東晋」に朝貢。421・425 年「倭王讃」、「宋」に朝貢。451 年「倭王済」が「宋」から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍」を加号。478 年「倭王武」、「宋」から「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に加号。製鉄の開始は、5 世紀初めに須恵器生産と同様に朝鮮半島から移入されたと考えられる。 大澤正己は、福岡県「閏崎遺跡」出土鉄滓の分析から、製鉄の開始が 5 世紀中頃と考えている。5 世紀前半に古墳副葬品に「鉄鋌」が出現。その後、数を増すが 6 世紀後半には見られなくなる。「鉄鋌」は輸入鉄素材として古墳時代前期までの日本における製鉄を否定する材料とされる。
この「鉄鋌」だが、「日本書紀」では「ねりかね」と訓読されて登場する。「三韓征伐」が出てくる「神功皇后摂政記」に以下の様な記述がある。
神功皇后摂政 46 年 3 月
そこで斯麻宿禰は、すぐに従者の爾波移(にはや)と卓淳の二人を百済の国に派遣して、その王を慰労させた。その時、百済の肖古王はたいそう喜んで、厚く振る舞った。そうして五色の綵絹各一匹と角の弓、並びに鉄鋌(ねりがね)四十枚を爾波移に贈った。
神功皇后摂政 52 年
五十二年の秋、丁卯朔の丙子(十日)に、久氏らは千熊長彦に従って来朝した。その時に七枝刀一振・七枝鏡一面をはじめ種々の重宝を賜った。そうして謹んで「我が国の西方に川があります。水源は谷那の鉄山より出ています。その遠いことは七日行っても行き着くことがありません。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を採って、永く聖朝に献上いたします。(原文:便取是山鉄 以永奉聖朝)
日本古典文学全集[2] 日本書紀(1)(口語訳)
ともに「日本」と「百済」との話であり、「新羅進駐」の礼として、「百済」から前段は「鉄鋌」四十枚などが贈られ、後段は「七枝刀」などが贈られるとともに「百済」からの鉄の輸入について語っているのである。この「七枝刀」だが、奈良県の「石上神宮」に神宝として伝えられる「七枝刀」があり、「石上神宮」によれば、「 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作」と書かれた銘文から、西暦 369 年に製作されたと考えられ、「この七支刀は『日本書紀』に神功皇后摂政 52 年に百済から献上されたとみえる「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると推測されており、前述の推定に誤りがなければ、この七支刀の銘文は『日本書紀』の紀年を訂正し、その伝承を裏付けることになります。しかも、この銘文は、我が国古代史上の絶対年代を明確にする最古の史料なのです」とのことである。この剣については鈴木勉氏らが「復元七支刀 古代東アジアの鉄・象嵌・文字」に詳しく書かれている。これについては、改めて稿を起こそうと思う。
また、「常陸国風土記」の香島郡の条には、崇神天皇の代に鹿島神に「太刀十口、鉾二枚、鉄箭二具・許呂四口・枚鉄一連・練鉄一連・馬一疋・鞍一具・八咫鏡二面・五色の絁一連」を供えたとあり、この「練鉄(ねりかね)」が「鉄鋌」である。「崇神天皇の代」とあるが、「鉄鋌」が出てくるので 5 世紀の話だと思う。祭祀用に鏡などとともに「鉄鋌」が用いられているのである。笹尾衛氏は「神道考古学から祭祀考古学へ」(國學院大學研究開発推進機構紀要 第 10 号平成 30 年 3 月 75頁)の中で、5 世紀代の千葉県木更津市千束台遺跡の祭祀遺構から、石製模造品や土器とともに鉄製模造品(斧形など)、鉄製の武器(鉄鏃など)、農具(曲刃鎌、U字型鋤先、手鎌)、工具(刀子、鉇など)、鉄素材(鉄鋌)が出土しており、「東北から九州の五世紀の祭祀遺跡でも一定量の鉄製品の出土が確認できる」と述べている。従って、鉄が非常に高価なこの時期に用いられる「鉄鋌」は、一部はそれから鉄製品を造ったかもしれないが、その鉄製品も含めてあくまでも祭祀用(副葬品を含む)であり、王の権威や国力を象徴するものだったと考えられる。
- 6世紀:【中国】南北朝時代、589 年「隋」が中国を統一。【朝鮮】三国時代。562 年「新羅」、「任那(伽耶)」を滅ぼす。慶尚南道密陽市「沙村製鉄遺跡」では炉床が円形の製鉄炉 7 基が確認された。原料は磁鉄鉱で焙焼されており、炉床は円形で地面を掘った土坑状になっていることから、日本列島の古い製鉄炉に影響を与えた可能性がある。製操業時期は 6 世紀前半から 7 世紀前半までの約 100 年間と推定され、当地に存在した「伽耶」が滅亡し「新羅」の支配下に入った時期であることから、「新羅」の製鉄遺跡と考えられる。【日本】古墳時代後期になると、製鉄炉が確認されるようになる。我が国最古と認められる製鉄遺跡である総社市千引「カナクロ谷遺跡」では、鉄鉱石を始発原料とする。そのそばの「奥坂製鉄遺跡群」も同様で、初期の製鉄鉱石を使うが後に砂鉄に切り替わる。滋賀県木之本町の「古橋遺跡」も鉄鉱石である。一方、岡山県「大蔵池南遺跡」、京都府「遠所遺跡」、広島県三良坂町(現・三次市)「白ヶ迫遺跡」、庄原市「小和田遺跡」はいずれも砂鉄を始発原料とする。炉の形状面では、広島県や島根県では円形・楕円形の炉床をした製鉄炉、岡山県の吉備平野では方形・長方形をした製鉄炉の炉床が確認されている。吉備平野の方形炉は外形の一辺が 1 m 以内、高さ約 80cm の小型炉で、地面を方形ないし長方形状に若干掘り窪めた中に木炭を詰め、炉床部分を形成している。炉壁に三角形状の炉穴がある例もあるが羽口は出土していない。
このようにして日本においても製鉄が開始されるが、6 世紀はまだ初期段階で数も少なく、北九州・中国・近畿地方に限定されていたが、7 世紀になると一挙に数も増え、また全国規模になる。次回は 7~10 世紀の本格的な製鉄遺跡について調べてみよう。
参考文献
- 関 清 「東アジアにおける日本列島の鉄生産」 日文研叢書 42、p. 311-326 (2008)
- 松井和幸 「鉄の日本史 邪馬台国から八幡製鐵所開所まで」 筑摩書房(2022)
- 笹山晴夫「日本古代史年表(上)」東京堂出版

