
右がふいごを用いた製鉄炉で銑鉄を造る様子、左は銑鉄をかき混ぜ錬鉄とする炒鋼法
では、粗っぽく鉄の古代史を整理してみよう。日本における古代の鉄の歴史、いや鉄だけではなく様々な物・文化が中国や朝鮮などの国々と密接に関係する。本当は東アジア全体を俯瞰した中で議論する必要があるのだろうが、簡単にはまとめられない。そこで、日本・中国・朝鮮に限り、さらに「人工鉄」に絞って、時系列に従って箇条書きしてみよう。
- 紀元前 9 ~ 8 世紀:【中国】紀元前 1100 年~紀元前 771 年、鎬京(現在の西安市)を都として興った「西周」の末期(紀元前 800 年前後)、国君墓である中原地域の「山門峡かく国墓」から人工鉄(錬鉄)製品 3 点が隕鉄製品 3 点とともに出土。これらは刃先のみを鉄にした銅(玉)鉄の複合製品である。これが中国における人工鉄の初見である。
- 紀元前 4 ~ 6 世紀:【中国】周の平王が洛陽の成周に東遷即位した紀元前 770 ~紀元前 453 年までが「春秋時代」で、その後、晋の家臣であった韓・魏・趙が主家を三分して独立し、晋が事実上滅亡すると、韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦が対立抗争する「戦国時代」が紀元前 221 年まで続く。この春秋末から戦国時代早期に比定されている江蘇省「程橋鎭 1 号墓・ 2 号墓」では、前者から「白銑鉄」の鉄塊 1 個、後者から「海綿鉄鍛造」の鉄棒 1 条が出土。すでにここで銑鉄品が登場している。【日本】鉄器の歴史の確実な始まりは山口県「山の神遺跡」が始まり、すなわち弥生時代前期末~中期初頭(紀元前 5~4 世紀くらい)から。以降、「燕」における鋳造鉄器の生産量増大に連動 して、急激に九州・山口地区で普及。
- 紀元前 3 世紀:【中国】製鉄遺跡が確認されるのは、戦国時代晩期の河南省西平市「酒店製鉄遺跡」が初見。河北省易県「燕下都 44 号墓」から鉄戟・鉄矛・鉄剣などが出土。この頃、生活用具、特に農具の多くが鉄器化すると同時に、鉄製武器類の出土が急増する。出土鉄器の分析から塊錬鉄に炭素を加えて高炭素鋼をつくるだけでなく焼き入れ技術も習得し、鋳鉄側では脱炭して鋼にする方法も一般化していたと推測。また、河北省興隆県寿王墳地区の「興隆遺跡」では戦国時代「燕国」の鉄器鋳造遺跡と考えら、多数の「鉄笵」(鉄製の二枚合わせ型の鋳型)が出土している。「鉄笵」は 40 対 87 点あり斧・鋤・鑿・釜・車金具用などがあった。【朝鮮】鉄器の使用開始は、紀元前 3 世紀頃に中国東北部(おそらく「燕国」から搬入された鋳造鉄器が初見。
- 紀元前 2 ・1 世紀:【中国】紀元前 221 年に秦王政(始皇帝)が全国を統一し、中国最初の統一帝国となるが、統一後わずか 10 余年で滅亡し、前漢が紀元前 206 年 ~ 8 年まで続く。漢代になると製鉄遺跡の規模は大きくなり、「鉄官」とよばれる国家が管理する大規模な鉄生産場が各地に設置された。河南省地域に大規模は製鉄遺跡が多く見られる。各工房では製錬、鋳造、熱処理がそれぞれ一連の作業工程として行われた。「鞏県鉄生溝」「鄭州古榮鎮」「南陽瓦房荘」遺跡などが代表的で、耐火煉瓦によって大規模な炉を築き、溶炉、鍛炉、退火炉(焼きなまし炉)、錬鋼炉などが確認され、多量の鋳型が出土している。溶鉱炉は炉頂の内径が 1.4 m、羽口は長さ 1.4 m、炉の入り口で外径 28 cm、他端で 60 cm であり、送風機はピストン型で、水車動力が利用されていたといわれている。さらに鋳造した鉄板を固体脱炭して整形鋼板をつくり、鍛錬を加えて鍛造鉄器を製作していたことも判明している。【朝鮮】前漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼし、紀元前 108 年に朝鮮半島の北部を中心に楽浪、玄兔、眞番、臨屯の四郡を設置した。紀元前 2 世紀後半とされる「莱城遺跡」から鍛冶関連の遺構と遺物が確認されている。鉄滓や羽口などが未検出の為、鉄板を加熱し鏨切り程度の簡単な作業が行われたと考えられている。
- 1・2 世紀:【中国】25 年、劉秀(光武帝)が漢王朝を再興し、洛陽に都を置き、後漢が始まる。後漢最末期には長安・許昌へと遷都され、 曹操や劉備が争う動乱期を経て、220年から三国時代が始まる。前漢後期における技術を引き継いでおり、熔銑鉄から錬鉄を造る「炒鋼法」(図4-1)も実施された。「南陽瓦房荘」遺跡における炒鋼炉は幅 30 cm、奥行き 50 cmほどの楕円形で、前半分が火池(火の焚き口の内側をさらに深く掘って燃料を入れる)、後半分が炉腔になっている。炉底には送風管がなく、上から吹き付ける形式の炉だったと思われる。熔炉に頻繁な炉修の跡があり、さらに溶融変形した煉瓦も発見されて、操業温度が炉の耐火温度の限界付近にあり、炉壁破損事故が頻繁にあったことが窺われる。【朝鮮】百済・新羅が国となる 4 世紀中頃までの経過期を「原三国時代」と呼ぶ。北には漢の四郡があり、南は馬韓、辰韓、弁韓に多数の部族が乱立していた。この時期には本格的な鍛冶遺構が確認できる。京畿道「馬場里遺跡」から羽口様の送風口付き土製や 鉄滓が出土し、慶尚南道「茶戸里遺跡」から鉄鎚が出土してい ることから、鍛接や炭素量調整などの鍛冶技術が確立したと見られている。【日本】初期の鉄器は朝鮮半島から持ち込まれる舶載品であったが、間もなく日本列島で鍛冶作業が行われるようになったと考えられる。弥生時代後期になって出現する木製の鍬や鋤と、その刃先として作られた長方形鉄板の両側を折り曲げただけの方形鍬・鋤先は日本列島独自のものである。
ここまでが紀元前 ~ 2 世紀頃までの話である。中国の技術が圧倒的に進んでいることがわかる。世界的にも突出している。欧州では、古代の鉄はすべて半熔融した鉄を鍛造したものであって、銑鉄・鋳鉄の生産はずっと後、 14 世紀になってからである。それに対して、中国は紀元前に銑鉄を造り、鋳造し、さらにそこから脱炭して錬鉄を造る技術を持っていた。これには、青銅器製作の高度技術の転用もあったろうが、それにしても驚異である。しかし、この「銑鉄生産の技術」が朝鮮や日本に入っていった形跡はない。おそらく鉄の生産技術はトップシークレットだったのだろう。鉄製品は流通させても、技術自体は流出しないようにしっかりと守られていたようだ。この時期の鉄製品の流入は、中国 → 朝鮮 → 日本というルートを経由したわけでななさそうだ。流入時期は日本と朝鮮でさほど違いはない。むしろ日本の方がやや早いかもしれない。
参考文献
- 関 清 「東アジアにおける日本列島の鉄生産」 日文研叢書 42、p. 311-326 (2008)
- 松井和幸 「鉄の日本史 邪馬台国から八幡製鐵所開所まで」 筑摩書房(2022)
- 藤尾真一郎「AMS-炭素14年代測定法が明らかに した 日本の鉄の歴史」鉄と鋼 Vol. 91 No. 1, p11 (2005)
- 佐原康夫 「< 研究ノート> 南陽瓦房荘漢代製鉄遺跡の技術史的検討」史林 76 (1) 121-134(1993)
- 永田和宏「熱力学的 に見 た製鉄の歴史」Inorganic Materials, Vol. 4, Nov. 575-585 (1997)

