謎のオオ氏を探せ! 5.常陸国におけるオオ氏の活動①

香取海を巡る神々 10. 大生神社③ 大生古墳群の発掘調査とタケカシマノミコト」では、『常陸国風土記』における「建借間(タケカシマ)の命」の伝承を紹介した。「タケカシマ」は「仲(那賀)国造(くにのみやつこ)」の祖先と書かれているし、『古事記』には「オオ氏」の始祖の「神八井耳命」の系譜に「常陸那珂国造」があることから、「タケカシマ」=「仲国造」=「オオ氏」となる。『常陸国風土記』には「タケカシマ」以外にも「オオ氏」とおぼしき人物が登場する。そこで今回は「オオ氏」の「常陸国」での活動について調べてみよう。

図5-1 常陸国

タケカシマノミコト

 前述の「行方郡」での記述のとおり、「仲(那賀)国造」の遠い祖先となっている。「仲国」の位置は図 5 – 1 の通りだが、「郡」となる前は「行方郡」や「香島郡」の一部を含む広大な国であったと考えられる。「仲国造」の任命は『常陸国風土記』では第 10 代の崇神天皇の御代のできごととなっているが、『国造本紀』(豆知識 5 参照)には、志賀高穴穂朝御世、すなわち第 13 代の成務天皇のときに「伊予国造と同祖」の「建借馬命」を国造に定めたと書かれている。「伊予国造と同祖」の同祖とは「オオ氏」の始祖「神八井耳命」を指す。「伊予国造」のところ見ると「印波国造と同祖」とあり、「印波国造」を見ると「神八井耳命八世孫」とあるから間違いない。ということは「伊予国」「印波国」の国造も「オオ氏」となる。また『国造本紀』では「仲国造」を「壬生直」と称している。この「壬生」は「乳部」とも書き、皇子皇女のための「部(べ)」であった。『日本書紀』推古十六年(608)の条に壬生部を定めたとあるから、「壬生直」は 7 世紀初頭以降の呼び名と考えられる。「タケカシマ」を祀る神社がある。茨城県水戸市にある「大井神社」である。また那珂川沿いに「タケカシマ」が眠るという「愛宕山古墳」(5 世紀初頭)もある。これについては、項を改めて詳しく述べたい。

黒坂命

「タケカシマ」は反抗勢力(国巣)と勇ましく戦ったが、もう一人「武勇伝」が書かれている人物がいる。『常陸国風土記』の「茨城(うばらき)郡」の条にある「黒坂命」である。

古老が言ったことは次のようである。昔、国巣(くず)〔土地の言葉では、つちくも。また、やつかはぎという〕である山の佐伯・野の佐伯がいた。いたるところに土の穴倉を設けて掘り、常に穴に住み、人が来ることがあると、ただちに穴倉に入って隠れ、その人が去ると、また野原に出て遊んだ。狼のような狂暴な性質と、梟のような不気味な心情を持っていて、鼠のようにこそこそと様子を窺って犬のように素早く盗む。呼び寄せて気をなだめてくれる人もなく、ますます土地の風習から遠ざかっていった。この時、大の臣の同族黒坂の命が、出て遊ぶ時をねらって、うばらを穴の内敷いておき、すぐさま騎馬の兵を発進させ、突然追い迫らせた。佐伯等は、いつものように土の穴倉に走って帰り、ことごとくうばらにひっかかり、突きささって傷つき病み、死んだり散って行ったりした。だから茨棘(うばら)の字を取って県の名につけた。(中略)ある説にはこう言っている。山の佐伯・野の佐伯が、みずから賊の長となって、一味の者を引き連れて、国の中を勝手気ままに歩きまわり、ひどく略奪や殺人をかさねた。その時に、黒坂の命が、この賊を計略で滅ぼそうとして、茨で城(き)(柵で囲ったとりで)を造った。だから、土地の名を茨城という。

『常陸国風土記』(茨城郡) 日本古典文学全集[5]

 征服者側の視点で書かれているので「狼のような狂暴な性質と、梟のような不気味な心情を持っていて、鼠のようにこそこそと様子を窺って犬のように素早く盗む」と好き放題に表現されるが、これらはもともとこの地に住んでいた人々のことである。侵略者に支配された土地で戦えば、ここで書かれているような行動をとるのではないだろうか。「黒坂の命」は「大の臣の同族」と書かれているので「オオ氏」である。「タケカシマ」と同様、計略によって「国巣」を征伐したという話が述べられており、「茨城」の地名説話に繋がっている。『常陸国風土記』で現地民との具体的な戦闘を描くのは「行方郡」の「タケカシマ」とこの「黒坂の命」の二例だけである。どちらも「オオ氏」の一族であるのは意味があるのだろうか?「タケカシマ」は崇神天皇が「お遣わしになった」とあるから、「ヤマト王権」側の軍を率いていたのだろう。「黒坂命」も同様と考えられる。一方、信太郡の逸文に次の様に記されている。

 黒坂の命が陸奥を討伐に行き、平定して凱旋した時のことである。多歌(たか)の郡の角枯(つのかれ)の山まで来たところ、黒坂の命は病気に罹り亡くなった。そこで角枯の名を改めて黒前(くろさき)の山と名付けた。黒坂の命の棺を乗せた葬送の車が、黒前の山を出て日高見の国に到ったが、飾り立てた葬送の様は、赤幡と青幡とが入り乱れて風に翻ってみごとなものであった。雲はきれ虹がかかって、野も道も明るく輝いたという。この様子から、人々はこの日高見の国を名付けて「赤幡垂(しだ)りの国」(赤旗が垂れ下がる国)と言った。後に言い方を改めて信太の国とした。

『常陸国風土記』逸文 日本古典文学全集〔5〕

 なんと「黒坂命」は陸奥の国まで遠征していたと書かれている。「黒坂命」が亡くなったとされる「多歌郡」の「角枯山」は現在の日立市十王町黒坂の「竪破山」で、『風土記』に「黒前山」と名付ける」とあることからここに「黒前神社」がある。ここから葬送の車が「日高見国」(信太郡)まで移動したのである。「黒坂命」の墓とされる古墳が茨城県稲敷郡美浦村にある「大塚 1 号墳(黒坂命 弁天塚古墳)」である。県道 120 号線沿いの南側に「黒坂命古墳」の矢印が出ているが、この看板のところから車で入るのは難しく、一本南側の道に入って「厳島神社」の鳥居(写真1)の前に出るとよい。階段を上れば古墳の上に出る。説明板によれば、発掘は江戸時代に行われたとのことで、石棺や武具などが出土している。2005年 に測量が行われている。形状から古墳時代中期前半(4 世紀末~5 世紀初)とされることから、「タケカシマ」と同時代というところだろうか。古墳の上部には「古墳記」が建っていて、その左に「黒坂命供養塔」がある。さらに左側の二つの社は「厳島神社」と「稲荷神社」である。

写真1 大塚1号古墳の登り口 厳島神社がある
写真2 古墳説明板
写真3 古墳上部
写真4 古墳紀

 

「黒坂命」の本拠地は墓のある信太郡だったかもしれない。しかし、この辺りは「物部氏」の神である「普都大神」が降り立った地であり、「物部氏」と関係が深い土地である。そこにどうして「オオ氏」の墓があるのか? 『常陸国風土記』の逸文に、白雉四年(653年)に「小山上の物部の河内と大乙上の物部の会津たちが、総領である高向卿たちに申請して、筑波の郡の家と茨城の郡の家の七百軒を分割して、信太の郡を置いた」(日本古典文学全集〔5〕)とあり、「黒坂命」の頃は、この辺りは茨城郡に属していたと考えれば辻褄が合う。もともとは「オオ氏」が支配していた土地であり、後に「物部氏」が進出して置き換わったと考えられる。「香島郡」の「中臣氏」のケースと同様であろう。7 世紀中頃には、この地で「オオ氏」はかなり力を失っていたと推測することができる。

 と、ここまでは明らかに「オオ氏」であることが判明している人物の紹介だった。このほかに、「オオ氏」かも知れない人物がいる。これについては次回、述べることにしよう。

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