香取海を巡る神々 10.大生神社③ 大生古墳群の発掘調査とタケカシマノミコト

 注文していた本が届いた。大場磐雄氏らが執筆した「常陸大生古墳群」だ。「茨城県行方郡潮来町教育委員会」の発行で昭和 46 年の古い本である。インターネットで注文したのだが、わざわざ古本屋まで足を運ばずとも、全国の古書店の蔵書を一覧でき、簡単に注文できる。すごい世の中になったものだ。A4 版 184 頁 図版付きの立派な本である。扉を開いて最初の凡例のところに目を通す。「本書は昭和二十七年から昭和三十五年の間に、五回に亘って行った発掘調査と、二、三の付属調査とを含めて総合報告したものである」とある。「昭和二十七年」! 私はまだ生まれていない。戦後の復興期である。その時代に、この地の発掘調査が行われていたのだ。

大生古墳群の発掘

 報告書からポイントを列挙してみよう。

  1. 大生古墳群はその数約 120 基を数え、前方後円墳 9 基からなる。その分布から大生西古墳群(37基、前方後円墳 5 基)、同東古墳群(60 基以上、前方後円墳 2 基)、大賀古墳群(3 基、前方後円墳 1 基)、釜谷古墳群(11 基、前方後円墳 1 基)、水原古墳群(5 基以上)からなる。(このうちの大生西古墳群と東古墳群の前方後円墳の位置関係は「大生神社①」で示した。)
  2. 大生西古墳群は最も大型前方後円墳が密集している点から考えて、大生古墳群の中枢部と考えられる。
  3. 大生西古墳群の 1 号墳(子子(まご)舞塚)、2 号墳(鹿見塚)ともに 70 m 前後の大型で、「造出(つくりだし)部」を有する特有な形をしている。造出とは、前方後円墳のくびれ部に付設された方壇状遺構で、中後期の古墳のごく一部で見られ、一種の祭壇と見られている。詳しくは例えば Wikipedia を参照。
  4. 1 号墳の発掘状況:南側に「造出部」があり、古墳の周囲に巡らされた土塁や濠が「造出部」では消失している。埴輪は墳丘の南側に多く発見されている。後円部が徹底的に調査されたが主体部(埋葬施設)が見当たらず、「空墓」と見ている。一方、造出部から「箱式石棺」が発見され、 40~50 歳台の男性と子供の遺骸が管玉、ガラス玉、刀、銀製刀装具、鉄製の鏃等とともに埋葬されていた。また、後円部の中央に埴輪の列中に介在して大甕一個が発見された。口を上にして据えられ、底部は故意に欠いてあった。
  5. 1 号墳の年代:墳丘の形式から判断すると、中央では 5 ~ 6 世紀(中期後半)となるが、中央から離れた周辺地域という点を考慮すると 6 世紀中葉か。造出部は墳丘第一段の築成時に造られたと考えられる。石棺の遺物の年代は直刀中に鰤切先を有するものがあることから、7 世紀後半と推定されている。大甕の製作年代は埴輪や他土器に比べ新しく 8 世紀を降ると見られ、後年、本墳にゆかりのある人が祭儀を執行して埋納したものと考えられる。
  6. 1 号墳の南側に近接する小円墳である 14 号墳では「箱式石棺」が発見され、埋葬遺物は遺骸 2 体のみであった。2 号墳については計測のみで発掘調査は行われていない。

 ここで特徴的なことは、1・2 号墳が珍しい「造出部」を伴う前方後円墳であるということだ。関東では群馬県に 4 例とこの大生の 2 例だけだという。「造出」は通常、納棺後の祭祀を行う場所と考えられている。古墳自体の建造は 6 世紀中葉と見られ、その建造時点で「祭祀」用の設備が組み込まれていた。大和岩雄氏は「大生神社」(「日本の神々 神社と聖地 11 関東」)の中で次の様に指摘している。「一号墳の後円部は鹿島神宮に向き、造出部は墳丘を通して大生神社に向く。これに対して二号墳の後円部は大生神社に向き、造出部は鹿島神宮に向く。また、三号・四号の後円部は鹿島神宮、五号の後円部は大生神社を向いている。大生の代表的な古墳群である西古墳群の前方後円墳五基の方向が、すべて鹿島神宮か大生神社に向いているのは、どういうことであろうか。」この事は、この地域が「大生神社」のみならず「鹿島神宮」とも非常に深い関係にあったことを物語っている。「大生神社」「鹿島神宮」の両方を意識した祭祀ができる墳墓をここに用意したのだろう。

 ところが、通常、埋葬施設が入るはずの墳丘ではなく、造出部から「箱式石棺」と遺骸が発見された。大場氏は「主墳の規模が関東における中位の上に位する大前方後円墳であり、二段に亘って埴輪郡をめぐらしている豪華な墳丘に対する主体部としてはいささか貧弱の感を免れ得ない」と書く。では、発見された遺体は誰なのか? 大場氏は「陪葬」ではないかと見ている。「主墳に納まるべきこの地の主は、生前において豪壮な墳墓を造らせたが、間もなく何らかの理由でこの地を去り、永く帰り給うことなく他国で逝去せられた。それを聞いた一族か特別の臣下の一人が、その後を追って殉死したので、一族はこれを主分に納めず、傍らの造出部に埋蔵した。私の夢は以上のように一応解いてみたのである。」「陪葬」かどうかは分からないが、少なくとも発見されているのは首長の遺骸ではないだろう。

 大場氏は「古墳群」と「オオ(オフ)氏」の関係に関して、次の様に結論づける。「本社の鎮座地が旧仲国造の地域内にあって、オフの地名を負うていることは、当然オフ一族の居住地であったことを示しており、さらにその記念物として、大生を中心に大賀・釜谷・水原に亘って存する一大古墳群を挙げることが出来よう。特に大生は数基の前方後円墳を始め、百数十基の円墳を遺しているが、それらが嘗てこの地に栄えたオフ一族の有力者の奥津城であることはほぼ推察に難くない。」

建借間の命と那賀国造

「仲国造(なかくにのみやつこ)」の話が出て来た。豆知識4 に書いたが、ヤマト王権は「クニ」という行政圏を設定し、その地域でもっとも有力な豪族を地方長官である「国造(くにのみやつこ)」に任命する制度を 6 世紀頃までに導入していた。その後「大化の改新」で、さらに中央集権化を推し進めるために、各地の「国造」の持つ「クニ」が分割・再編されて「調(こおり)」となり、大宝律令後は「郡(こおり)」となった。「仲国(なかのくに)」は今のひたちなか市、水戸市を中心とする地域で、「常陸国風土記」には、大化五年(六四九)に那賀国造部内と下総国海上国造部内の里を割き「香島郡」、白雉四年(六五三)に那賀の地と茨城の地の里を割いて「行方(なめがた)郡」を新設したとあることから、「郡」になる前の「鹿島」や「潮来」は「仲国」に含まれていたのだろう。その「仲国造」が「オオ氏」だったのである。その「仲国造」の祖先伝承が「常陸国風土記」に書かれている。

 古老が言ったことは次のようである。斯貴(しき)の満垣(みずがき)の宮で天下をお治めになった天皇(崇神天皇)のみ世に、東国の辺境の荒れすさぶ賊を平定しようとして、建借間(たけかしま)の命(この人は那賀の国の造の遠い祖先である)をお遣わしになった。兵士を引き連れて、行く先々でわる賢い賊どもを討った。

 安婆(あば)の島にいったん宿り、海の東の浦を遙かに眺めた。ちょうどその時に煙が見えたので、そこで人がいるかと思い、建借間の命が、天を仰いで祈誓をして言ったことには、「もしあれが大和朝廷側の人の煙であったなら、こちらへ来てわたしの頭上を覆うようにたなびけ。もし荒れすさぶ賊の煙であったなら、去って海原の中にたなびけ」といった。その時に煙は、海に向かって流れていった。そこで自然とわる者どもがいるのを知り、ただちに部下に命じて、朝早く食事をとらせて海を渡った。

 さてそのとき、国栖(くず)、名を夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)という二人がいた。みずから首長となって、穴を掘りとりでを造って、常にその中に住んでいた。朝廷側の軍隊の隙をねらい、身を伏せて守り抵抗する。建借間の命が、兵を発進させて追っかけると、賊はことごとく逃げ帰り、とりでを閉じてがっちり遮り守る。突如、建借間の命は、大きな策略を考えつき、決死の戦士を選抜して、山の曲がり角に身を伏せて隠しておき、賊を滅ぼすための武器を造り準備した。

 なぎさを荘厳に飾り、舟をつらね筏を編んで、雲のような天蓋を風にひるがえし、虹のような旗を張った。天の鳥琴(とりごと)、天の鳥笛の音は、波が寄せ潮が流れるのに応じて流れて行き、杵を鳴らし歌をうたい、七日七夜、遊び楽しみ歌い舞いつづけた。その時、賊の一味は盛大な音楽を聞き、建借間の命の葬儀と判断して、一家全部、男も女も、ことごとくとりでから出て来て、浜いっぱいに喜び笑いあった。建借間の命は、騎馬の兵士にとりでを閉鎖させ、後ろから襲撃して、ことごとく一族を捕らえ、わずかな間に焼き滅ぼした。この時、「イタく(大勢を)殺すぞ」と言った所は、今、伊多久(いたく)の郷といい、「フツに(ばっさりと)斬るぞ」と言った所は、今、布都奈の村といい、「安く(たやすく)殺るぞ」と言った所は、今、安伐(やすきり)の里といい、「吉(え)く(上手に)殺(き)くぞ」と言った所は、今、吉前(えさき)の邑という。

常陸国風土記 小学館「日本古典文学全集 5」口語訳 (分かりやすいように適宜、段落を区切った)

 最後の「潮来」などの地名の由来はご愛敬であるが、「仲国造」の祖先の「タケカシマノミコト」の武勇伝となっている。「東国の辺境の荒れすさぶ賊」とあるが、要は「ヤマト王権」に従わない土着の人々である。「侵略者」である「タケカシマ」はこれらの土着民と潮来の地で争っていた。最初に出てくる敵の動きを察知した「安婆の島」は稲敷郡桜川村阿波崎が遺称地とされるが「浮島」という説もある。「国栖」は記紀では吉野の住民だが、ここでは上記のように反賊の意味であろう。「穴を掘りとりでを造って、常にその中に住んでいた」とあるから、ゲリラ戦を行っていたのだろう。この戦において、「タケカシマ」は「だまし討ち」を仕掛ける。なぎさは荘厳に飾られ、舟をつらね、そこからは妙なる音楽が流れてくる。兵士達は楯を鳴らして歌う。これが七日七夜続いた。これを「タケカシマ」の葬儀だと勘違いした賊はみんな砦から外へ出てくる。そこを一網打尽にして、皆殺しにしたというのである。

 この「杵を鳴らし歌をうたい」の部分、今の原文は「鳴杵唱曲」となっているが、旧説では「杵嶋唱曲」となっていて、九州佐賀の「杵島」の唄を歌うと解釈されていた。現説は「嶋」が「鳴」の誤写であるとし、自分の死亡に見せかける計略で身分相応の葬式を実施したと考えている。旧説では「タケカシマ」は九州佐賀からこの常陸の地にやってきて、彼の将兵たちは故郷の唄を歌い、また「キシマ」から「カシマ」へ転じ、「タケカシマ」こそ「カシマ」の地を名に負う「オオ氏」の首長だったと、素晴らしい推論が展開できたのだが、少なくとも「杵島の唄」は使えなくなった。しかし、佐賀県に「鹿島」という地名はある。現在は「鹿島市」になっているが、「延喜式」兵部省諸国馬牛牧に「肥前国 鹿嶋馬牧」という名が見えることから、古くから「鹿島」だった可能性が高い。「佐賀」から「常陸」へという推論も可能性を否定できない。さらに、この「タケカシマ」が「鹿島神宮」のエリアを支配していたことから、「タケカシマ」の「カシマ」が「鹿島神宮」の「カシマ」だという推論も成り立つのである。水戸市にはこの「タケカシマ」を祭神とする「大井神社」があり、さらに彼を埋葬したという「天神山古墳」もある。同じように、この「カシマ」の地でも「オオ氏」が「カシマ神」の祭祀を行っていた可能性は高い。しかし、「大化の改新」の頃には「オオ氏」は力を失い地方の一豪族となってしまっていた。そして、勢力を急伸させる「中臣・藤原氏」に、その「神」を奪われてしまったのではないか? このように「オオ氏」に関する探索は、非常に大きな広がりを感じさせるテーマである。これついては「第2集 謎のオオ氏を探せ!」で詳しく書いていきたいと思っている。

(更新 2023/09/18)

タイトルとURLをコピーしました