香取海を巡る神々 13.香取神宮② 祭神について

「香取神宮」の祭神は「経津主大神(フツヌシノオオカミ)」又の名は「伊波比主命(イハイヌシノミコト)」である。「フツヌシ」は「タケミカヅチ」とともに、国譲り神話で活躍した神である。それがどうして「イハイヌシノミコト」になるのか? 今回はこの問題について考えていこう。

イハイヌシとする根拠

「伊波比主命」という名前はつぎの 3 つの 9 ~ 10 世紀の資料に現れる。

  • 『続日本後紀』(869 年完成):承和三年(836年)五月丁未条「奉授下総国香取郡従三位伊波比主命正二位。常陸国鹿島郡従二位勲一等建御賀豆智命正二位。
  • 同:承和六年(839年)十月丁丑条「奉授坐下総国香取郡正二位伊波比主命。坐常陸国鹿島郡正二位勲一等建御賀豆智命並従一位。
  • 『延喜式』(905 年)巻八、祝詞式春日祭条「鹿島坐建御賀豆智命。香取坐伊波比主命

 より古い記録はどうなっているかというと、『日本書紀』(720 年成立)第九段の一書の第二に以下の文章がある。

天神は経津主神・武甕槌神を遣わして葦原中国を平定させられた。二柱の神は、「天に悪神がいます。名を天津甕星(アマツミカボシ)と言います[またの名を天香背背男(アメノカカセオ)と言う]。どうかまずこの神を誅して、その後に下って葦原中国を平定いたしたく存じます」と申し上げた。この時、天津甕星を誅するための斎主(イワイ)の神があり、斎(イワイ)の大人(ウシ)と申し上げる。この神は今東国の檝取(かとり)の地に鎮座されている。

日本古典文学全集[2] 日本書紀(1)(口語訳)

 ここにいう「斎主」が「伊波比主(イハイヌシ)」であり、「檝取」を「香取」とするのである。「斎主」とは何かというと、『日本古典文学全集』では「禊斎して神を祭る人で、その対象になる神が『イハヒノ神』。悪神である星の神を註するための出陣に際し、『斎主の神』を祭ってその成功を祈願したのである。『斎主の神』の名が『斎主の大人』。『大人』がつくのは、祭られる神が人の形をしているためか」と説明している。だが、そうすると、「天津甕星」を誅するために「イハイノ神」を祭ったのは「経津主神・武甕槌神」であり、「斎主(イハイヌシ)」は「経津主神・武甕槌神」の両神となるはずである。つまり、この文章は「経津主神・武甕槌神」が「イハイノ神」を祭り、その「イハイノ神」は『日本書紀』が書かれた当時「香取」に鎮座していると言っているだけで、「香取」の「祭神」が「イハイヌシ」だとは言っていない。三品彰英「フツのミタマ考」(『建国神話の諸問題』第2章)、岡田精司「香取海の起源と祭神」(千葉県の歴史 15, 1978)、吉井哲「神郡と征夷ー鹿島・香取郡の性格」(千葉県の歴史 46 1-21, 1994-10-31)らは、この理屈から「香取」の「祭神」を「イハイヌシ」とする観念が『日本書紀』が成立する 8 世紀に存在したことを主張することはできないとしている。

フツヌシとする根拠

 これに対して、香取の祭神を「フツヌシ」とする資料が 2 つある。

  • 『古語拾遺』(807 年):「既而、天照大神・高皇産霊尊、崇養皇孫、欲降為豊葦原中国主。仍、遣経津主神 是磐筒女神之子、今、下総国香取神是也・武甕槌神、是、甕速日神之子。今、常陸国鹿島神是也。駆除平定。」
  • 『先代旧事本紀』巻一、陰陽本紀(806 ~ 906 年の間に成立):「児磐筒男磐筒女二神。相生之神児。経津主神。今坐下総香取大神是也。」

 先ほどの 3 つの資料より古い記録である。ただし、この 2 書は正史ではない。『古語拾遺』は「忌部氏」の斎部広成が「藤原・中臣氏」を弾劾するために起こした書であり、『先代旧事本紀』は「物部氏」系の人物によって書かれた書である。どちらも主役の座から追われた氏族の後裔が、「藤原・中臣氏」によって都合のよいように創られた「歴史」に対して「本当はこうだ」と主張しているものなのである。どちらも、「香取」の神は本当は「フツヌシ」だと主張してる。

「香取」の南に「匝瑳(そうさ)」がある。現在は「八日市場市」と「匝瑳郡野栄町」が合併して「匝瑳市」となっているが、古代から中世までの「匝瑳郡」は現在の匝瑳市に加え、旭市、横芝光町の一部、香取郡多古町・栗源町にわたる広域な地域であった。この「匝瑳」の地名の由来ついて匝瑳市のホームページには、「平安時代前期の歴史書『続日本後紀』によれば、5 世紀の終わり頃から 6 世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった物部小事という人物が、坂東(現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡とし、小事の子孫が物部匝瑳氏を名乗ったと伝えられています」とある。「物部小事」は系図を見ると、「蘇我氏」と争い敗死した「物部守屋」から 2 代前の人物である。当時、「香取」の南は「物部氏」が支配する土地だった。

 一方、「香取」の北西には、「常陸利根川」を隔てて『常陸国風土記』に書かれる「信太郡」(現在の茨城県稲敷郡東部から土浦市にかけての霞ヶ浦沿岸地帯)がある。ここは、白雉四年(653 年)に「小山上の物部の河内と大乙上の物部の会津たちが、総領である高向卿たちに申請して、筑波の郡の家と茨城の郡の家の七百軒を分割して、信太の郡を置いた」(日本古典文学全集〔5〕『常陸国風土記 逸文』)とあり、ここも物部氏の土地だった。つまり、7 世紀の中頃は「香取」は物部氏が支配する 2 つの地域にに挟まれていた。従って、「香取神宮」は当然「物部氏」の影響の強い土地に建てられていたことになる。その「物部氏」が書いた『先代旧事本紀』は、「香取の神」が「経津主神」だと主張する。つまり、「物部氏」が支配していた頃の祭神は「経津主神」だったのだろう。

香取神宮の祭祀者の変更

「香取神宮」の大宮司である「香取氏」の系図が公開されている。これを見ると、初祖は「経津主命」だったが、「五百島」のところで「大中臣氏」から養子が入り、以降、「香取氏」は{香取姓」を改めて「中臣姓」を称するようになっている。『続日本紀』の神亀元年(714 年)二月の条に、この「五百島」が外従五位下を授けられたとあることから、8 世紀の初めには「物部系」から「中臣系」へと祭祀者が変更した。「鹿島神宮」と対比すると、「鹿島神宮」の建設は 662 ~ 671 年のどこかであり、710 年には藤原不比等が鹿島から「春日大社」に「武甕槌命」を遷している。おそらく、これと同じタイミングで「香取の神」も中臣氏の神になったのだろう。そして、これに伴い「イハヒヌシ」が「香取の神」になったのではないか? 

フツヌシの性格

 では、「物部氏」が祭神とする「フツヌシ」とはどのような神か。それついて調べた後に、「中臣氏」が祭る「イハヒヌシ」とはどんな神か考えることにする。

「フツヌシ」に関係する資料を列挙してみる。

  1. 古事記:「フツヌシ」は登場せず、「タケミカズチ」またの名を「建布都神(タケフツノカミ」「豊布都神(トヨフツノカミ)」が大国主と国譲り交渉を行う
  2. 日本書紀 第九段本文:「経津主神にこの神を添えて、葦原中つ国の平定にお遣わしになった。経津主神と武甕槌神の二柱の神は、出雲国の五十田狭の小汀に降ってきて、十握の剣を抜き逆さまに大地に突き立てて(後略)(日本古典文学全集[2]口語訳)」
  3. 古事記 神武天皇:神武東征の際、「天照大神・高木神」が「タケミカヅチ」に出馬要請すると、「『私が降らなくても、もっぱらその国を平定した太刀があります。この太刀を降すのがよいでしょう[この太刀の名は、佐士布都神という。またの名は甕布都神という。またの名は布都御魂(フツノミタマ)。この太刀は石上神宮に鎮座している]。』(日本古典文学全集[1]口語訳)」との答え。
  4. 日本書紀 神武天皇即位前記:神武東征の際、「天照大神」が「タケミカヅチ」に出馬要請すると、「『私が参らずとも、私がかつて国を平定したときに使った剣を下せば、国の中はおのずと平らぐことでしょう』と申し上げた。天照大神は『よし、承知した』と仰せられた。そこで、武甕雷神は、さっそく高倉下に語って、『私の剣は師霊(フツノミタマ)という。今、これをお前の倉の中に置こう。それを取って天孫に献上せよ』と言われた。(日本古典文学全集[2]口語訳)」
  5. 常陸国風土記:「信太郡」の条「高久の里」のところで、「天地の始め、草も木も言葉を発していた頃に、天から降って来られた神があり、み名は普都(ふつ)の大神と申し上げる。その神が葦原中つ国をご巡行になり、山河の荒々しい神々を平定なさった。その時、身につけておられた武器[土地のことばで、いつの(神聖な)甲・戈・楯・剣という]また、手にお持ちの玉珪を、すっかりとりはずして棄て、この地に留めおいて、すぐさま白雲に乗って、青天にのぼり還って行かれた。(日本古典文学全集[5]口語訳)」とある。

 『日本書紀』では「フツヌシ」が「国譲り交渉」の主となっているが、『古事記』では「フツヌシ」は登場せず「タケミカズチ」が交渉を行う。この「タケミカズチ」の別名が「タケフツ・トヨフツ」である。『日本古典文学全集 [1]』の註では、「フツ」は「擬声語で、剣で切る時の音。二神とも斬れ味鋭い刀剣の表象」とする。つまり、「タケフツ・トヨフツ」は「タケミカヅチ」の分身である「刀剣」である。同じことが、3・4 の『古事記』・『日本書紀』でも現れている。「タケミカヅチ」の分身は「師霊(フツノミタマ)」という剣である。そして、『古事記』はこの剣が「石上神宮」にあるという。

「石上神宮」の第一祭神は「布都御魂大神」である。日本書紀の垂仁天皇八十七年条に、「物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めるのは、これがその由縁である(日本古典文学全集[2]口語訳)」とある。ここで言う「今」は『日本書紀』編纂の時であり、それ以前「石上神宮」の兵器の管理者はずっと「物部氏」だったと言っている。また天武朝には「物部氏」は「石上宿禰」と称している。このように、「フツノミタマ」のある「石上神宮」は「物部氏」と非常に関係が深い。だから、5 の「常陸国風土記」では、この刀剣の神「普都大神」が物部氏が支配する「信太郡」に降臨しているのである。

 このように「フツヌシ」は刀剣の神であり、「タケミカヅチ」と対をなす存在である。一方で、「フツヌシ」は「石上神宮」・「物部氏」と非常に関係が深い。だから、「中臣氏」は「香取神宮」の祭神を「フツヌシ」とすることを嫌ったのだ。

イハイヌシとは

 では「イハイヌシ」とは何か? 「イハイヌシ」を祭神としている神社を調べると、「中臣氏」の氏神を祀る「枚岡神社」は延喜式では「タケミカヅチノミコト」「イハイヌシノミコト」「アメノコヤネノミコト」「ヒメカミ」の四柱。「藤原・中臣」氏の氏神を祀る「春日大社」やその系統の「春日神社」、藤原氏が作った「吉田神社」も同じパターンである。つまり、「イハイヌシ」は「タケミカヅチ」とセットで現れている。「タケミカヅチ」の「斎主」が[イハイヌシ」なのだ。この関係は同時に祀られている「アメノコヤネ」と「ヒメカミ」の関係と同じである。つまり「ヒコ」「ヒメ」の関係である。大和岩雄氏は「神社と古代王権祭祀」の中で、宮井義雄氏の説を紹介し、「宮井義雄は、香取大禰宜家文書のうち応保年間(1161-63)以降の大禰宜家の海夫管領の文書などから、香取神宮を海人の信仰をあつめていた神とし、斎主を厳媛(いつひめ)とする神武記の例などから、『斎主は原始には女性の任であった。イハヒヌシの命の名前は本来からすれば女神でなければならない』と書いて、海部(海夫)の祭る女神とする。(中略)物忌とは、斎主(厳媛)のことである。未婚の女性がなる物忌が香取神宮には二名いることからみても、この神社の性格がわかる。」と書いている。つまり鹿島の「タケミカヅチ」の「ヒメ神」の性格を「香取神」に持たせたのである。「物部氏」が反発するのは道理であろう。前回、「鹿島神宮」は荒々しいが、「香取神宮」は優美さを感じると書いた。これがその理由かもしれない。

 長くなったが「祭神問題」はこれで解決し、次回は「鹿島」だけでなく、なぜ「香取」も神宮として必要だったかについて考えて見よう。

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