では、「多神社」についてもう少し詳しく見ていくことにしよう。ポイントはつぎの 4 点である。順に検討していこう。
- 神社の規模
- 神社の名前と祭神
- 神社の位置とその意味
- 神社の性格
神社の規模
表 4-1 は大和にある主な神社の規模を 8 世紀始~ 10 世紀まで比較したものである。①は天平二年(730 年)の『大倭国正税帳』(つまり各国に貯えられた税の収支報告書)に見える 730 年までの税の蓄積量(稲の量)、②は同資料における 730 年時点の税額(稲の量)、③は大同元年(806 年)における神社に付属した民戸である神戸(かんべ)の数、④は 平安期 905 ~ 927 年に作成された『延喜式神名帳』に見える神税額(酒稲の量)のそれぞれについて、各時点の最大値を 100 として指標化したものである。
730 年以前に蓄積された稲の量は「多神社」が群を抜いて多く、他社に比べてずば抜けた勢力を誇っていたことがわかる。730 年時点では、「大神(おおみわ)神社」に抜かれて二番目になる。さらに平安期に入ると、「大倭神社」が台頭してきてだいぶ順位が下がり、10 世紀ではトップグループ(大神・大和)の 1/4 程度の規模となっている。重要性はだいぶ薄らいできてはいるが、10 世紀においてさえ「多神社」は大和の代表的な神社の一つで、「石上神宮」と並ぶクラスだったようだ。

神社の名前と祭神
『延喜式神名帳』には「多坐弥志理都比古神社二座」と記されている。明治時代に書かれた『延喜式神名帳』の注釈書である『特選神名牒』では、この二座をオオ氏の祖の「神八井耳命(即弥志理都比古神)」と「姫神」としているが、なぜ「神八井耳命」=「弥志理都比古神」なのかについては説明されていない。また、明治時代に地方庁が行った神社の調査報告書『神社明細帳』では主神を「神八井耳命・神沼河耳命」または「神八井耳命・神武天皇」とする。
これらは明治時代の記録であり、それ以前はどうなっていたかというと、江戸時代の『和州五郡神社神名帳大略注解(略して和州五郡神社誌)』に祭神四座のうち左二座を「水知津彦・火知津姫」、右二座を「皇子神命・姫皇子命」とすると記述がある。ここで「水知津彦・火知津姫」が出て来たが、この元となるのが、1149 年に「多神宮」の禰宜五位下の多朝臣常麻呂らが国司に提出した『多神宮注進状』の記述である。「大宮二座」として「珍子賢津日霊神尊(ウツノミコサカツヒコノカミノミコト)・天祖賢津日孁神尊(アマツヲヤサカツヒメノカミノミコト)」とあり、さらに本文に「水火知男女神(ミヒシリヒコヒメノカミ)」と記載されている。どうやらここから、「水知男神」と「火知女神」の二座と読み、「ミシリヒコ(水知男)」→「ミシリツヒコ(水知津彦)」→「ミシリツヒコ(弥志理都比古)」と変化したものと考えたようである。
一方、『多神宮注進状』の「珍子賢津日霊神尊」と「天祖賢津日孁神尊」であるが、「天祖」とは一般的に「天照大神」を指す。すると「珍子」とはその子供の「天忍穂耳尊(アメノオシオノミコト)」になる。また、『多神宮注進状』の裏書きを書くときに参考にした社伝の「社司多神命秘伝」には、「第一殿 天忍穂耳尊 即水知津彦神、第二殿 天疎向津媛尊 即火知津姫神 神名帳曰、多座弥志理都比古神社二座是也」と書かれている。この「天疎向津媛尊(アマサカルムカツヒメ)」は『日本書紀』によれば「神功皇后」に神懸かりした「天照大神」の荒魂とされる。つまり、「天照大神」とするところを遠慮して「天疎向津媛尊」とし、「天忍穂耳尊」と組み合わせて、「神功皇后」・「応神天皇」イメージを重ねている。
『日本書紀』は「天照大神」の別名を「天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)」「大日孁貴神(オオヒルメムチノカミ)」と書く。大和岩雄氏は「日本の神々4 大和」の中で、「ヒルメ・テルヒ・アマテルオホヒルメは日の神の妻であり、日の御子の母の名である」と書いている。うまり、「日の御子」と「その母」が「多神社」の祭神なのである。「多神社」の位置関係を見るとそのことが一層明らかになる。
神社の位置関係
大和岩雄氏の数々の著書に「三輪山」「多神社」「二上山」「畝傍山」「鏡作(かがみづくり)神社」の位置図が登場する(例えば、『日本古代試論』大和書房 1974 )。実際の地図でその位置関係を見てみたい(図 4-1)。東から「三輪山山頂」「多神社」「二上山の穴虫峠」が一直線上に並び、「多神社」からみると「三輪山の山頂」は真東の方向にあたる。だから、春分・秋分の時、太陽は「三輪山」の山頂から昇り、「二上山」の二つの山の間に沈む。一方、「多神社」の真南に「畝傍山」、真北には岩見の「鏡作神社」があり、「三輪山」「多神社」「畝傍山」を結んだ線は直角三角形であり、「三輪山」「多神社」「鏡作神社」を結ぶと巨大な正三角形が現れる。詳しく図 4-1 を見ると、三角形の頂点は畝傍山山頂より北にある。ここにあるのは「神武天皇畝傍山東北陵」である。つまり三輪山山頂からは冬至の太陽が「神武天皇」とオオ氏の始祖「神八井耳命」が眠る御陵に沈み(逆に御陵からは三輪山から夏至の太陽が昇るのが見え)、「鏡作神社」からは三輪山からの冬至の日の出を見ることができるのである。このようにして太陽の動きを読む、つまり「日読み」することで季節を正確に知ることができる。稲作にかかわるさまざな作業のタイミングがわかるのである。このように明らかに計画的に配置された位置、それも中心位置に「多神社」は存在しているのである。

多神社の性格
昭和 47 年にこの地から縄文時代~古墳時代の土器や祭器が発見され、さらに 1981 年には弥生時代前期~古墳時代後期に至る大規模な環濠集落が発見されている。祭祀的色彩が濃厚であり、神まつりの聖地・祭場であったと考えられる。
さきほど日読みの話を書いたが、もうひとつ重要なことは、太陽光が田圃に降り注ぎ、そのエネルギーによって稲が生長し、さらには稲穂を実らせる(つまり子を作る)ことである。その太陽は「三輪山」から昇って来る。大和岩雄氏は「日本の神々 神社と聖地4 大和」の中でこう書いている。
「伊藤幹治は『稲作儀礼の研究』の中で、田の神が春秋二つの季節に『田と天を去来する型』『田と山を去来する型』『田と家を去来する型』の三つのタイプを田の神来訪伝承の『基本型とみなすことは誰も異存がないだろう』と述べている。田の神は日神(天道様)とみられる以上、天・山から来訪(御成)すると考えらえるのは当然である。三輪山の神は、多の値にオナリしていたのである。」
「多神社」の祭神は「日の御子(珍子賢津日霊神尊=天忍穂耳尊)」と「その母(天祖賢津日孁神尊=天疎向津媛尊)」であった。「日孁」すなわち「日女(ヒルメ)」は神の妻であり、母として神の子「日霊」すなわち「日子(ヒルコ)」を生むのである。太陽と田の稲の関係がここに現れている。そして、この「三輪山」に昇る太陽を祀るのが「多神社」なのであろう。
最後に「弥志理都比古」であるが、「弥(ミ)」は敬称、「都(ツ)」は「~の」という助詞だとすると残るのは「志理(シリ)」である。これを大和氏は「『知(しり)』と解してよいであろう。『知ル』は『領(シ)ル』と同源で『治める』『統治する』『つかさどる』の意がある。…(中略)…『日知り』は『日を領知する』の意で『聖(ひじり)』に通ずる」(「日本の神々 神社と聖地4 大和」)とするが、古代の神の名前にしては抽象的すぎると思う。むしろその後に書かれている「志理(シリ)」は「物実(ものしろ)」(何かの威力が仮託されたもの)で「天つ水」をためた[甕」であり、「神八井耳命」の「八井」も同じ意味であるとする説の方が「具象的」ではあるのだが、いずれにしても私の理解の範囲をはるかに超えている。

