香取海を巡る神々 11.息栖神社

 江戸時代に大流行した「東国三社詣」は、利根川沿いの「木下河岸(きおろしかし)」を出発し、船(木下茶船)で「東国三社」を回ったのだそうだ。今でいうバスツアーのようなものだが、江戸中期には人数にすると年間 4700 人、一日あたり 46 人が詣でたというからその人気ぶりがうかがえる。ここでいう「東国三社」とは「鹿島」「香取」の両神宮と今回のテーマである「息栖(いきす)神社」である。

『三代実録』の仁和元年(885 年)3 月 15 日の条に「於岐都説(おきつせ)」という名前が見える。この「オキツセ」から「オキス」「イキス」と変化したものらしい。江戸時代の『十根川図誌』によれば、「息栖」は「息洲」で「沖洲・浮洲」の意と書かれている。「香取海の地図」(図11-1)でみると、海に突き出た砂州の先端に神社があり、名前の由来が合点できる。汀線を 7 m に置くと水没してしまうところである。「古くは日川に鎮座していた祠を大同二年(807 年)に右大臣藤原内麿の命に依り、現在地の息栖へ遷座したと伝承されている」(神社内説明板息栖市教育委員会)とある。この大同二年は「鹿島神」が「今の鹿島」に遷座した年である(9.大生神社② 「元鹿島」の謎に迫る)。なお祠のあった場所は現在の神社の南東で、そこには「息栖神社跡地」の碑が立っている。

 位置関係を見てみよう。「鹿島神宮」というよりは、鹿島の「跡宮」の真南に位置する。「息栖神社」の「一の鳥居」が「鹿島神宮」の「南の鳥居」を兼ねていることから、「神宮」の重要な末社であることがわかる。「息栖神社」のちょうど真西に「香取神宮」があり、「鹿島(跡宮)」「息栖」「香取」で直角二等辺三角形となる。意識的にそのような場所に神社を建てたのだろう。さらに面白いことに、この「息栖」「香取」の延長線上に「大戸神社」がくるのである。「大戸神社」は名前から見て「オオ氏」との関係が推察されるし、「多神社」の項で述べたように、太陽の動きに合わせた神社配置を行い「日祀り」を行うのがオオ氏の祭祀の姿であった。ここにも「オオ氏」が存在するのではないかと思ってしまう。

図11-1 息栖神社の位置
図11-2 境内案内図

 神社の境内案内図(図11-2)によれば、常陸利根川沿いに「一の鳥居」があり、その両側に「忍潮井(おしおい)」があるとのことで、まず立ち寄ってみる。写真 2、3 がそれぞれ「男瓶」「女瓶」で、水の中に瓶の口らしきものが見える。幸い水は透き通っていて、中の瓶がよく見えた。吉田東伍の『大日本地名辞書・板東』にはつぎのような伝承が載っている。

『諸国里人談』云、息栖明神の磯ぢかき海中に、女瓶男瓶とて、二つの奇石あり。男瓶は経一丈あまりにして、銚子のかたちなり。その口とおぼしき所に溝あり、中は穴のごとくに窪みて、鍋の形なり。女瓶はわたり五六尺ばかり、土器に似たり。土俗曰く、これは神代の銚子土器なりと。此石満潮には二三尺沈めり。干潟には水上にあらはれけり。その銚子の中は素水にして、潮の味ひなし。これを忍塩井の水といへり。

写真1 息栖神社 一の鳥居(常陸利根川側から)
写真2 忍潮井 男瓶
写真3 忍潮井 女瓶

 そういえば、「鹿島神宮」の祭神の「タケミカヅチ」も「甕」の神であった。「瓶」は航海の加護に霊験を示すのだという。では、「二の鳥居」をくぐり、境内の中に入ってみよう。

写真4 息栖神社 二の鳥居

 入ってすぐ左側に「稲荷神社」がある。どこにでもある「お稲荷さん」だが、なかなか立派である。神社が昭和 35 年(1960)焼失し再建した時に、杜の奥にあったものをここに移したのだそうだ。

写真5 稲荷神社
写真6 息栖神社本殿

 こちらが拝殿。前は江戸時代の豪華な建物だったそうだが、今はコンクリート造である。ちょうど「大祓」の日だったせいか、みなさん準備作業に忙しくされていた。御神木は樹齢およそ 1000 年の夫婦杉だが、写真 7 は角度が悪く夫婦杉には見えない。

写真7 本殿の横にあるご神木

 現在の御祭神は 5 柱で、主神が「岐神(くなどの神)」、相殿に「天鳥船神(あめのとりふねの神)」「住吉三神(上筒男神、中筒男神、下筒男神)」となっている。この「岐神」であるが、『朝日日本歴史人物事典』には、「道の分岐点で、旅人の道中の安全をはかる神。『日本書紀』の神話に登場し、伊奘諾尊が黄泉の国で雷神に追いかけられたときに杖を投げ、「これ以上来るな」といったので、その杖をクナドノカミと名づけたとある。道饗祭の祝詞では、道の分岐点で魔物を防ぐ「八衢(やちまた)ひこ、八衢ひめ、くなど」のことが語られている。クナドノサエノカミともいう。クナドは「来るなという入り口」の意。『古事記』では船戸神(フナドノカミ)と呼ばれるが、これだと「通過するなという入り口」の意となる。サエノカミは「塞の神」。クナド、フナド両神も、外部から邪霊が侵入するのを防ぐ神で、のちに、これらはすべて道祖神として信仰を集めた。」とある。また、神社の説明板には「江戸時代には主神を『気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)』と記しているものもあり(木曽名所図会、新編常陸国史)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑『此里は気吹戸主の風寒し』は、その関連を物語っているものと思われる。」と書かれている。「気吹戸主神」は海原に強風を生み出し罪穢を吹き払う神とされる。「天鳥船神」といい「気吹戸主神」といい航海に関係の深い神々である。「香取海」に突き出た砂州という場所柄から見ても「息栖神社」は「安全な航海」を祈念する神社であったのだろうと思う。

 一方、谷川健一編「日本の神々 神社と聖地11 関東」では、「息栖神社の文書に、主神を猿田彦神としている記事がある」と書いているが、詳細は不明である。すでに「7.坂戸・沼尾神社」で書いたように「鹿島神宮」周辺には「猿田」の地名があり、また「猿田」姓の人も多い。この辺りも同様で、神社の周辺には「猿田水産」や「猿田美容院」がある。さらに、利根川の反対側、千葉県側にも「猿田神社」がある。何かの関係があるものと思われる。

 神社内の説明板には「岐神」を「鹿島香取の大神と共にその先頭に立たれ国土の経営にあたられた」と書いている。この役目として思い浮かぶのは、「岐神」というよりは、天孫降臨神話で「瓊瓊杵命(ニニギノミコト)」を道案内した「国津神」である「猿田彦大神」である。この神話の「猿田彦」に、ヤマト王権の東国侵攻に際し、王権側に呼応してさまざまな手引きをする現地豪族のイメージがかぶるのである。交渉が平和的に進む場合ばかりではない。前回、「タケカシマ」の説話で見たような武力衝突も当然あったのである。そして、多くの血が流され、この常陸の地は王権の支配下に入ったのだ。

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