「元鹿島」の意味
では、なぜ「元鹿島」と呼ばれるのかについて検討していこう。大和岩雄氏は「大生神社」(「日本の神々 神社と聖地 11 関東」)の中で、「大生神社」と「鹿島神宮」の関係を明らかにする 4 つの資料を紹介している。その資料とは、[1] 大生神社に社蔵されていた棟札(明治 7 年 11 月)の裏書きにある由緒書、[2] 鹿島神宮の社家の一つである「東(とう)家」所蔵の『羽入氏書留由緒』(天正 23 年 5 月 21 日 羽入氏親在書写之の奥書)、[3] 同『ものいみ書留』、[4] 同『鹿島大明神御齋宮神系代々』の常元(当禰宜四位上)の条、である。なお、「東家」については「日本歴史地名大系」に「鹿島神宮内陣の鑰(かぎ)を預かる物忌は代々神職の未婚の娘が卜定され、中世末より当禰宜家の女が選ばれた。当禰宜は物忌代または千富禰宜とも称し、物忌後見役として近世には大宮司や惣大行事とともに三支配とよばれ、社家のなかで最も有力であった。本来は中臣連であるが、中世末に千葉氏流の東氏が継いだ」とある。
これらの資料にある事象を時系列順にまとめると次の様になる。[]の中の数字は、上記の根拠資料の番号である。
- (大生に)御鎮座したこと神代の大古昔なり [1]
- 神護景雲二年(768 年) 和州城上郡春日の里に御遷幸 [1] (注:「和州」は「大和国」の別称、「城上郡」は現桜井市東北部などを占めた郡)
- 大同元年(806 年) 2 月 11 日に藤原氏東征御護として此里(大生)に御遷還 [1]、大生宮に御遷座 [2]、春日社より大生の地に遷幸 [3]、11 月 14 日、平城天皇御代、東征(蝦夷征伐)のため官軍が常陸国行方郡の島崎に陣を敷いたとき、戦場加護のため春日大明神の弊帛を奉じ、営中で斎宮と当禰宜常元らが大生大明神を祭祀した(このことから毎年 11 月 14 日から二夜三日祭祀を行うが、この大生宮は「南都大生邑大明神遷座」とあり、今の鹿島本社の神は大生宮より遷座したので、「大生神印当宮神璽」なりとある) [4]
- 大同二年(807 年) 同国見目の浦鹿島郡に御遷幸の御跡を別宮と御称し、大御神の分け御魂を齋き奉り [1]、2 月 27 日に「今の鹿島」に御遷座 [2]、2 月 27 日に「今のかしまの本社」へ御遷座 [3]、東夷が帰順すると、勅によって大生宮から鹿島大谷郷へ移動した [4]
つまり、大古から「大生神社」に鎮座していた「神」が、768 年に「春日の里」に移動し、806 年に再び「大生神社」に戻って来るが、その翌年 807 年に「鹿島」に移動し、移動後の「大生神社」は別宮として、分魂を祭祀しているということになる。また、[4]の資料は、「大生神社」の「神」は「南都大生邑大明神」つまり 奈良県磯城郡田原本町多(おお)にある「多(おお)神社」から遷座したものであり、「大生神」の印が「鹿島の神璽」だ、と驚くべきことを言っている。要するに「鹿島神宮」の「タケミカヅチ」とされる「神」は、もともとは奈良の「多神社」から「大生神社」に遷座した神であり、その後、「春日」に移動したが、「和銅」の時代に「大生神社」を経由して「鹿島神宮」に移ったという。「春日大社」では「タケミカヅチ」は「藤原氏=中臣氏」の氏神であるし、「鹿島神宮」の祭祀者も「中臣氏」である。これが事実なら、「中臣氏」が「オオ氏」の神を乗っ取ったことになる。
前回、地方の郷社である「大生神社」の大例祭(11 月 15 日)に「鹿島神宮」の女性神職物忌が、わざわざ鹿島から船に乗ってやって来て奉仕を行うのが不思議だと述べた。物忌出御の行事は年に 6 回あるが、大半は神宮内の祭事であり、唯一の例外が「大生祭」だったのである。「中臣氏」が「オオ氏」の神を乗っ取ったと考えれば、「鹿島神宮」が「大生神社」を無視できない、ともかく立てておきたいという気持ちがはたらく理由が合点できるのである。
鹿島「跡宮」からの物忌出御
この「物忌出御」のコースは、「跡宮(あとのみや)」→「〆掛け河岸」→「沼尾辺り」→「釜谷の鳥居河岸」→「甕森(みかもり)神社」→「大生神社」となっているが、これは「大生神社」から「鹿島」へ「神」が遷幸したコースの逆ではないか? 「沼尾辺り」とあるが、これはかつての「沼尾池」から「北浦」を真西に移動したのだと思う。これは春分・秋分時の太陽の動きと同じだ。太陽は「明石の浜」から入り、「沼尾池」を通って、「甕森神社」を経て「大生神社」に達する。同じようなケースがヤマトの「多神社」にある。この場合は、「三輪山」ー「多神社」ー「二上山」が直線上に並び、春分・秋分時には太陽はこの順に移動するのである。ヤマトで「日読みの祭祀」を行っていたのが「オオ氏」であることから、ここでも同じような配置設計がなされているのだと思う(詳しくは「第二集 幻のオオ氏を探せ!」の「多神社」の項を参照)。さらに、図 9-1 に示すように、鹿島の「跡宮」は「大生神社」から見て冬至の太陽が昇る位置になっている。大和岩雄氏は「大生神社の旧暦十一月十四から十六日までの大祭は、冬至祭ではないだろうか」と書いている。

鹿島の「跡宮」は鹿嶋市神野にある鹿島神宮の摂社であり、説明板によればこの宮のそばにかつては「物忌」が住んでいた。



水がめの神
では、この「大生神社」から鹿島へ移動した神とはいかなる神か? 前に「タケミカヅチ」は「甕」と「槌」の神と書いた。しかし、実はこの解釈では「甕」と「槌」の関係がしっくりこないと悩んでいた。明治時代に書かれた「古事記新講」を見ると、「『建』は猛しの意、『御雷』は借字で、ミカは甕速日神の甕と均しく厳しいという意であり、ツチのツは助詞、チは父・龍(たつ)・雷(いかづち)・蛇(おろち)のチと同じく敬称語である」としている。全部は納得できないが、「ツ」は所有・所属などの意を表す助詞だと思う。「天ツ神」=天にいる神・天の神、「まつげ」=目にある毛、と同じ「ツ」だ。「甕(ミカ)」はカメであるが、正確には「ミ」が水、「カ」がカメなので、「水がめ」である。では最後の「チ」は何か? 私は「霊(チ)」だと思う。デジタル大辞泉では、「自然の事物などの名詞の下に付いて、それが神秘的な力をもつ意を表す。『いかず―(雷)』『おろ―(大蛇)』『みず―(水霊)』」としており、「古事記新講」と似ている。これで理解できた。つまり「タケミカヅチ」は「いさましい・甕(みずがめ)・の・霊」なのである。
吉野裕氏は「風土記世界と鉄王神話」の中で「甕崇拝」について、「縄文時代以来ながきにわたって民衆生活のうちに深ぶかと息づいていたと考えられる甕崇拝の存在が想像されるからであった(その顕現形態はちがっていてもこれは世界的なものではなかろうか)。もちろんミカとよばれる土器の形式も用途も多様であったろうから一律にいうことはできないけれども、それが水の容器であり、しかも死者の埋葬具でもありえたという事実はこのさい注意されなければならない。この生と死の両端でそれが利用されていることは、この土器が生命とのかかわりあいにおいて取り扱われる容器であることを示しており、そこに呪術・宗教的な関係が成立すると見ることをさまたげないであろう」と書いている。
また、大和岩雄氏は「鹿島神宮」(「日本の神々 神社と聖地 11 関東」)の中で、昭和 59 年の桜井市脇本遺跡(雄略天皇朝倉宮跡とされる)から 5 世紀後半の甕が出土したことを紹介し、「石を挟んで逆さまに置かれてあった。甕のそばには何かを焼いた跡もあることから、地霊を封じるために、甕の口を下に向けて地鎮祭儀を行った痕跡と思われる」と書いている。さらに大和氏は「大生神社が『甕』の祭祀にかかわることは、大生神社の真東にある甕森神社が、行方郡の多氏の祭る神社であることからも証される。大生古墳群は、この二つの神社周辺に集中している。甕森神社の拝殿は西面しており、真西にある大生神社と東西に並ぶ」と結論づける(同「大生神社」)。

