播磨国造の謎(3)新撰姓氏録を調べる

 つぎに『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を調べてみよう。

『新撰姓氏録』について『日本大百科全書』は次のように解説している。

815 年(弘仁 6)に編纂された古代氏族の系譜書。本書の編纂は 799 年(延暦 18)、諸国に本系帳の撰上を命じたことに始まる。814 年に至り万多 (まんた) 親王、藤原園人、同緒嗣らによって完成されたが、さらに源朝臣の条などを追加し、不備な点を補って翌年に朝廷に献上された。全 30 巻、目録 1 巻からなるが、現在伝わっているのは抄録本であって、原本の姿をうかがわせる逸文がいくつか残っている。左京、右京、山城 、大和、摂津、河内、和泉の諸国に居住していた 1182 氏の本系を、皇別、神別、諸蕃の「三体」と呼称する類別に従って分類し、また当時の政治的勢力の優劣の順序によって各氏族を配列してある。『古事記』『日本書紀』など古典には漏れた氏族の古伝承が記されているので、古代史研究の史料として重視されている。本書のような系譜書がつくられたのは、編纂時の政治的、社会的な要請に基づいているので、当代の歴史の側面を知るのにも貴重な文献である。(佐伯有清)

「本系帳」とは『日本国語大辞典』によれば、「始祖および別祖などの名を記載し、一門の系譜を集めて、その系統を明らかにしたもの」である。左京、右京、山城 、大和、摂津、河内、和泉の諸国に住む氏族に「本系帳」を提出させたのだろう。それをまとめたものが『新撰姓氏録』で、平安時代の 815 年に完成したものである。この説明を書かれている「佐伯有清」氏はこの分野の専門家で『新撰姓氏録の研究』という本を書かれている。これがまた、本文編、考証篇 第 1 ~ 6、索引・論考篇、拾遺篇、研究編の全 10 巻という大著なのだ。幸い近くの図書館にあり、貸し出し可能だったので、本文編と考証編 2 を借りてみた。書庫から持ってきていただいた本を手に取るとズッシリと重い。中をチラチラ見ただけで、これは凄い本だと感心した。「本文編」は 399 ページあるが、最初の約半分が「諸本の研究」に当てられている。つまり、写本なのでいろいろな本があり、それらを検討されて「校訂新撰姓氏録」としてまとめられたのである。ただし、ここから該当するものを探し当てようとすると結構手間がかかる。そこで何かいいものはないかと、web をさがしていると、ありがたいことに「群馬県立女子大学北川研究室」(北川和秀教授は2017年に退官)がこの「本文編」をデジタル化して公開されておられるのを見つけた。『新撰姓氏録』氏族一覧 というページである。これなら検索をかけて、容易に目的のものが得られる。

「北川研究室」のページでは「第一帙(皇別)」「第二帙(神別)」「第三帙(諸蕃・未定雑姓)」の三つに分けられている。では、「播磨国造」から調べよう。「氏族名が後年いろいろ変化していることがあり得るので、うまくキーワードを選ぶ必要がある。

播磨国造

「播磨国造」は前回調べたように「稲背入彦」が始祖。 「針間国造」「針間別」「佐伯直」「伊許自別」などがキーワードになりうる。引っかかったのは次の二件である。

  • 168 右京皇別:佐伯直
  • 始祖:景行天皇皇子稲背入彦命之後也
  • 記事:男御諸別命。稚足彦天皇[謚成務。]御代。中分針間国給之。仍号針間別。男阿良都命[一名伊許自別。]誉田天皇為定国堺。車駕巡幸。到針間国神崎郡瓦村東崗上。于時青菜葉自崗辺川流下。天皇詔応川上有人也。仍差伊許自別命往問。即答曰。己等是日本武尊平東夷時。所俘蝦夷之後也。散遣於針間。阿藝。阿波。讃岐。伊豫等国。仍居此氏也。[後改為佐伯。]伊許自別命以状復奏。天皇詔曰。宜汝為君治之。即賜氏針間別佐伯直。[佐伯者所謂氏姓也。直者謂君也。]尓後至庚牛年。脱落針間別三字。偏為佐伯直
  • 299 河内国皇別:佐伯直
  • 始祖:大足彦忍代別天皇皇子稲背入彦命之後也

 河内国の「佐伯直」に「大足彦忍代別天皇」とあるが、これは「景行」の倭名なので内容は同じだが、右京の方はとても詳しい。

播磨鴨国造

「播磨鴨国造」は「豊城入彦」が始祖。他に「針間鴨」「御穂別命」「市入別命」がキーワード。

  • 豊城入彦・皇族では、下毛野朝臣、上毛野朝臣、池田朝臣、住吉朝臣、上毛野坂本朝臣、車持公、大綱公、桑原公、垂水公、吉弥侯部、佐味朝臣、田辺史、下養公、広来津公、韓矢田部造、止美連、村挙首、佐代公、珍県主、登美首、葛原部、茨木造 がヒット。他のキーワードはヒットなし。
  • 豊城入彦・第三帙(諸蕃・未定雑姓)では」、我孫、佐自怒公、伊気、我孫公がヒット。

 「播磨鴨国造」に関するものは見つからなかったが、「毛野氏」の同族がとても多いことにびっくりした。ここで「発端」のところで書いた「国府寺家」について「姓氏辞典」を調べた時に出てきた「韓矢田部造」を発見した。これを調べると何か分かるかもしれない。

明石国造

「八代足尼」「都弥自足尼」「明石」に該当するものはなかった。

佐伯直の記事検討

「佐伯直」について『新撰姓氏録の研究考証編第二巻』で該当する 168 のところを見てみよう。まず、書き下し文が載っている。

佐伯の直。景行天皇の子、稲背入彦命の後なり。男・御諸別みもろわけは、稚足彦わかたらしひこ天皇(諡は成務)の御代、針間国を中分なかばわけて給はれり。りて針間別と号す。男・阿良都あらつ命(一の名は伊許自別)、誉田ほむた天皇、国境を定むる為に、車駕巡幸いでまして、針間国神崎郡瓦村の東崗の上に到りたまふ。時に青菜葉、崗辺の川り流れ下りければ、天皇、川上に人有るしと詔り給ひて、すなは伊許自別命をつかはして往て問しむ。即ち答へてまうさく、己等やつこらは是れ日本武尊の東の夷を平げたまひし時に、俘に所られし蝦夷の後なり。針間、阿芸、阿波、讃岐、伊予等の国に散け遣され、仍りて此に居る氏なりと(後に改めて佐伯と為き)といふ。伊許自別命、ありつるかたちをもって復奏す。天皇詔りして曰はく、汝、君と為て治む宜しとのたまふ。即ち氏を針間別佐伯直と賜ふ。(佐伯は謂はゆる氏姓なり。直は君を謂ふなり)爾後そののち、庚午の年に至りて、針間別の三字を脱落て、偏に佐伯直と為き。

 この後、11 ページにわたって解説が書かれているのだが、さすがに全部書くのも大変なので要点だけを記そう。書き下し分に関係するところを太字で示す。

  1. 佐伯という氏名は播磨国に設置された「佐伯部」の伴造(とものみやつこ)、つまり「佐伯部」の管理者であったことからくる。もともとは「針間別佐伯直」だったが、「庚午」すなわち天智天皇九年(670)に「佐伯直」になった。
  2. 佐伯直」の一族には「佐伯直東人」「佐伯直漢古」「佐伯直林」「佐伯直麻呂」らがおり、彼らは播磨国鴨郡既多寺の『大智度論』の書写とかかわり、播磨国の豪族であった。「佐伯直一族」は印南郡、揖保郡などにも分布していた。なお、播磨国揖保郡には無姓の佐伯氏がいたことが『続日本紀』に見える。
  3. 稲背入彦」については、既に見てきた『記紀』の異なる記述について言及したあと、「飯田武郷の『日本書紀通釈』に「平田翁云」として、「白国氏系譜に(此譜は彼国の氏人の持伝へたる物にて。 珍らしき事も往々見えたり)稲背入彦命ハ(母皇妃曰五十河命。父天皇有八十之子。仍配于諸国。)稲背命封于播磨国。仍妬庸波那とよはな之地造宮。而針間国別之后始祖也」とみえる」とある。
  4. 御諸別命」。飯田式郷の『日本書紀通釈』「平田翁云」に「白国氏系譜に……また御諸別命を(入彦命の御子に系て)成務天皇配分針間国給之。雌鹿間野造宮」とみえるとある。
  5. 本条や系譜の「中分針間国」「配分播磨国」とあるのは針間別という呼称にもとづいて造作された後世の伝承であろう。
  6. 己等やつこらは是れ日本武尊の…  「蝦夷を五カ国に分散させた」という記事は『日本書紀』景行紀 51 年にある「其の、神山の傍に置らしむ蝦夷は、是本より獣しき心有りて、中国うちつくにに住ましむ難し。故、其の情の願いの随に、邦畿之外に班らしめよ」とのたまふ。是今、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波、凡て五国の佐伯部の祖なり」で裏付けられる。これによって佐伯部は、蝦夷をもって編成された部民であったことがうかがわれる。この解釈について、「考証編」では津田左右吉の反論やその後の見解など詳しく述べているが、『岩波文庫版日本書紀』の註が簡潔なのでここで紹介しよう。「井上光貞は律令時代、夷俘を内国に移住せしめた例からしても、事実とみてよいとする。また井上は、佐伯部が日本武尊の東征の結果設置されたとする景行紀の所伝はもとより伝説であるとしても、書紀に掲げられたこれら諸国のうち、伊予を除く四国については、いずれも他資料によって、佐伯部、もしくはその管掌者たる佐伯直の存在していたことが推測され、かつ大化前代においては、これら以外の諸国に分布が認められないという事実が知られるので、佐伯部がここに掲げられた諸国に、大化前代、五、六世紀のある時点で、画一的に設定されたものであることは、ほぼ事実とみて誤りないとしている。なお佐伯部は、各国の国造の一族が佐伯直となってこれを管理し、佐伯直は、中央の伴造たる佐伯連と氏族関係を結んでいた」。
  7. 針間別佐伯直について、『日本書紀』仁徳天皇四十年二月条に「佐伯直阿俄能胡」が出ていることを指摘している。また、『播磨国風土記』神前郡多駝里条にも「阿我乃古」として登場する。

さて、いろいろと新しい情報が得られたので順次検討していこうと思うが、ここで新しく「御諸別命」「阿良都」が現れた。まとめると次のようになる。

  • 景行天皇ー稲背入彦[播磨別の祖]ー御諸別[針間別]ー阿良都(別名:伊許自別)[針間国造・針間別佐伯直(670 年以降は佐伯直)]

一方、前回見たように、「上毛野氏」の系譜にも「御諸別」が登場するのである。

  • 崇神天皇-豊城入彦ー○ー彦狭嶋[毛野国造]ー御諸別[上毛野国造?]

 また『姓氏録』においても、「豊城入彦」後裔の「珍県主」「葛原部」が「豊城入彦命三世孫御諸別命之後也」「豊城入彦命三世孫大御諸別命之後也」と同じように「豊城入彦命三世孫」に「御諸別」を位置づけている。同じ名前が「崇神」四世孫と「景行」の孫として重複するのである。「景行」は「崇神」の孫だから、同世代である。これは同一人物か、それとも同名異人か? これについて佐伯有清氏は何も語っていない。

  • 崇神天皇-豊城入彦ー○○○○ー彦狭嶋 ー御諸別
  • 崇神天皇ー垂仁天皇ー景行天皇ー稲背入彦ー御諸別ー阿良都(別名:伊許自別)

韓矢田部造の検討

では、同じ「豊城入彦」後裔で「国府寺家」とも関係が深いの「韓矢田部造」はどうなっているか?

  • 255 摂津国皇別:韓矢田部造
  • 始祖:上毛野朝臣同祖豊城入彦命之後也
  • 記事:三世孫弥母里別命孫現古君。気長足比売[謚神功。]筑紫橿冰宮御宇之時。海中有物。差現古君遣見。復奏之日。率韓蘇使主等参来。因賜韓矢田部造姓

韓矢田部造からやたべのみやつこ。上毛野朝臣と同じき祖。豊城入彦命の後なり。三世孫、弥母里別みもりわけ命の孫、現古君うつしこのきみ気長足比売おきながたらしひめ(謚は神功)筑紫の橿冰宮かしひのみやに御宇しし時に、海中に物有り。現古君うつしこのきみを差して、見遣みしめたまひしに、復奏の日に、韓蘇使主からそのおみ等を率て参来けり。これに因りて韓矢田部造といふ姓を賜ひき。

と名前の由来を述べているが、「針間鴨国造」との関係は不明なままである。ここでは「御諸別」は「弥母里別」となっているが、音は似ている。「気長足比売」が登場し、関係が深いことを物語っている。

 以上、「針間国造」=「佐伯直」については多くの情報が得られたが、「針間鴨国造」「明石国造」についてはまだ不明な点が多い。次回は少し視点を変えて、播磨国の地形と区分について述べ、これらの国造の管轄地域について考えてみよう。

タイトルとURLをコピーしました