播磨国造の謎(2)国造本紀、記紀を調べる

 各地の「国造」の系譜を記した資料がある。平安時代初期に編纂されたといわれる歴史書『先代旧事本紀 (せんだいくじほんぎ)』略して『旧事本紀』の第 10 巻の「国造本紀」だ。全国の 130 余りの国造を列挙し、それぞれの国造が任命された時代、初代国造の名前を記している。古代史研究、とくに地方史の貴重な史料である。

 この「国造本紀」につていは篠川賢氏の詳しい論考「『国造本紀』の国造系譜」がある。これによれば、「基本的には各国造氏が実際に称えてきたところの系譜を伝えたもの」であり、「その系譜が形成された時期は 6 世紀中頃から後半にかけての時期と考えられ」、その成立については「大宝 2 年(702)に国造氏が決定された際に、各国造氏からそれぞれが称えてきたところの系譜を記したものが提出され、それに基づいて『国造記』が作成され、さらにその『国造記』を原資料として『国造本紀』が書かれたと考えられる」とのことである。

 では、『国造本紀』を用いて「播磨国」に関係する「国造」を調べてみよう。篠川氏の論文の 「2. 同系国造の検討」の皇別⑥の崇神天皇裔に、上毛野国造・下毛野国造・浮田国造と並んで「針間鴨国造」、⑧の景行天皇裔に讃岐国造・日向国造と並んで「針間国造」が見える。また、地祇系の⑯椎根津彦命系のところに大倭国造・久比岐国造と並んで「明石国造」があった。「針間」は「播磨」の別表記である。

 また、その前の「1.記紀の系譜との比較」の章では国造の系譜が『古事記』や『日本書紀』にも記載されているものがあることが示され、「国造本紀と記紀の系譜の対応関係」が表になっている。この中に「針間国造」があり、氏姓が「針間別(のち佐伯直)」で『日本書紀』に「播磨別」として記載があることが示されている。

 では、「針間鴨国造」「針間国造」「明石国造」について実際にどのように記載されているかみてみよう。

  • 針間鴨国造:志賀高穴穂御世。上毛野国造同祖御穂別命児市入別命。定賜国造。
  • 針間国造:志賀高穴穂朝。稲背入彦命孫伊許自別命。定賜国造。
  • 明石国造:軽嶋豊明朝御世。大倭直同祖八代足尼児都弥自足尼。定賜国造。

 最初の「志賀高穴穂御世」とか「軽嶋豊明朝御世」の部分であるが、これは天皇が「国造」を任命した時期を表しており、天皇が宮の名前で呼ばれているのである。「志賀高穴穂」は第 13 代「成務天皇」、「軽嶋豊明朝御世」は第 15 代「応神天皇」のことである。その後に系譜が書かれ、「定賜国造」で「国造」となったことが示される。

針間鴨国造

  • 上毛野国造同祖御穂別命児市入別命。

「針間鴨国造」は「上毛野国造」と同祖の「御穂別命」の児の「市入別命」を国造に定めたとある。ここで同族とされる「上毛野国造」を見ると、

  • 瑞離朝。皇子豊城入彦命孫彦狭嶋命。初治平東方十二国為封。

となっていて、「瑞離朝(崇神朝)」に「崇神天皇」の皇子「豊城入彦命」の孫の「彦狭嶋命」が初めて東方の十二国を平らげたため領地を与えたとある。もうひとつ、「下毛野国造」も見ておくと、

  • 難波高津朝御世。元毛野国分為上下。豊城命四世孫奈良別。初定賜国造。

「仁徳朝」に「毛野国」を分けて、「豊城命」の四世孫の「奈良別」を初めて国造に定めると書かれている。これらを合わせて考えると、「針間鴨国造」は

  • 「崇神」-「豊城入彦」ー「御穂別命」ー「市入別命」(針間鴨国造)

 という関係になるが、「豊城入彦」と「御穂別命」の間には何世代か入る可能性もある。

 この「上毛野国造」「下毛野国造」は『記紀』に記述があるので調べてみよう。なお、『古事記』は倉野憲司校注の岩波文庫版、『日本書紀』は坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注の岩波文庫版を用いている。またポイントとなる部分を太字で示した。

  • 古事記崇神記:この天皇、木國造、名は荒河刀辨の女、遠津年魚目目微比賣を娶して、生みませる御子、豊木入日子命。(中略)次に豊木入日子命は、上つ毛野、下つ毛野君の祖なり
  • 日本書紀崇神四十八年条:豊城命を以て東国を治めしむ。是上毛野君・下毛野紀の始祖なり
  • 同景行五十五年条:彦狭嶋王を以て、東山道の十五国の都督に拝けたまふ。是豊城命の孫なり。
  • 同景行五十六年条:御諸別王に詔して曰はく「汝が父彦狭嶋王、任さす所に向ること得ずして早く薨りぬ。故、汝専東国を領めよ」とのたまふ。是を以て、御諸別王、天皇の命を承りて、且に父の業を成さむとす

 ここから浮かび上がるのは、

  • 「崇神」-「豊城入彦」ー○ー「彦狭嶋」(毛野国造)ー「御諸別」(上毛野国造?)ー「奈良別」(下毛野国造)

 という系譜である。「針間鴨国造」系譜にある「御穂別」とこの「御諸別」、一字違いである。誤記とする説もあるようだが、いったん保留にしておこう。

針間国造

  • 稲背入彦命孫伊許自別命。

「針間国造」は成務期に「稲背入彦」の孫の「伊許自別」を国造に定めたとある。同じ系統にある「讃岐国造」と「日向国造」がどう書かれているか調べると、

  • 讃岐国造:軽嶋豊明朝御世。景行帝児神櫛王三世孫須売保礼命。定賜国造。
  • 日向国造:軽嶋豊明朝御世。豊国別皇子三世孫老男。定賜国造。

「讃岐国造」は応神朝に「景行天皇」の児の「神櫛王」の三世孫である「須売保礼命」を国造に定めたとあり、「日向国造」は「国別皇子」の三世孫の「老男」を国造にしたとあって、「景行」の皇子の段階で分岐しているようである。

『日本書紀』にも記述があるとのことなので調べると、

  • 日本書紀景行四年条:次妃五十河媛神櫛皇子稲背入彦皇子を生めり。是讃岐国の始祖なり、弟稲背入彦皇子は、是播磨別の始祖なり。

 とあり、「播磨国造」の祖の「稲瀬入彦」と「讃岐国造」の祖の「神櫛」とは同母兄弟になっている。まとめたのが次だ。

  • 「景行天皇」ー「稲背入彦」(播磨別の祖)ー○ー「伊許自別」(針間国造)

 ここで念のため、『古事記』の景行記を見ると、皇子に「稲背入彦」がいない。さらに調べていくと、一つ前の第 11 代「垂仁天皇」の「后妃皇子女」の条に皇后である「氷羽州比売命(ヒバスヒメ)」(書紀では「日葉酢媛」)の妹の「阿邪美能伊理毘売命」との間に産まれた「阿邪美都比売命」が「稲瀬毘古王」に嫁いだとあり、この「稲瀬毘古王」が「稲瀬入彦」ではないかと思われる。「阿邪美都比売命」については、日本書紀垂仁紀に「日葉酢媛」の妹として「薊瓊入媛」がおり、その娘「稚淺津姫」が出てきて存在が裏付けられるが、嫁ぎ先についての記述はない。『記紀』で記述が食い違っているのだ。

「神櫛王」についてもどうなっているか見てみよう。『古事記』に「神櫛王」は登場する。しかし、その母は「針間の伊那毘能大郎女」になっている。そもそも「五十河媛」が登場しないのだ。「櫛角別」「大碓」「小碓」「倭根子」に続く第五子が「神櫛王」である。また、ここに国造の話はなく、かわりに木国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖と記述されている。

 だいぶ『記紀』で食い違いが見られるようだ。そこで、「景行天皇」の皇后と子供たちが『記紀』にどう書かれているのかリストアップしてみることにした。

古事記

  1. 針間の伊那毘能大郎女ー①櫛角別 ②大碓 ③小碓 ④倭根子※2 ⑤神櫛王※1
  2. 八坂入日売ー①若帯日子 ②五百木入日子 ③押別 ④五百木入日売
  3. 妾ー①豊別王※4 ②沼代郎女
  4. 妾ー①沼名木郎女 ②香余理比売 ③若木入日子※3 ④吉備兄日子 ⑤高木比売 ⑥弟比売
  5. 日向美波迦斯毘売ー①豊国別王(国造本紀に日向国造)
  6. 伊那毘能若郎女ー①眞若王 ②日子人大兄王
  7. 訶具漏比売ー①大枝王

日本書紀

  1. 播磨稲日大郎女ー①大碓 ②小碓(日本武尊) (③倭根子※2)
  2. 八坂入媛ー①稚足彦(成務) ②五百木入彦 ③忍之別 ④稚倭根子※2 ⑤大酢別 ⑥渟熨斗皇女 ⑦渟名城皇女 ⑧五百城入姫 ⑨カゴヨリ姫皇女 ⑩五十狭代入彦※3 ⑪吉備兄彦 ⑫高城入姫 ⑬弟姫
  3. 水歯郎媛ー①五百野皇女
  4. 五十河媛ー①神櫛※1(讃岐国造の祖) ②稲背入彦(播磨別の始祖)
  5. 高田媛ー①武国凝別(伊予国の御村別の祖)
  6. 日向髪長大田根ー①日向襲津彦(阿牟君の祖[山口県])
  7. 襲武媛ー①国乳別(水沼別の始祖[福岡県]) ②国背別 ③豊戸別※4(火国別の始祖[佐賀・熊本・長崎県])

 太字が「記」「紀」両方に名前が見えるもの。同じらしき人物が違う場所に来る場合には※数字で対応させている。『古事記』の 4 までと『日本書紀』の 2 までは一致が多い。『古事記』で「妾」とされる部分を『日本書紀』では「八坂入媛」に編入させているようだ。その結果、「八坂入媛」は 13 人も子供を産んだことになってしまっている。

 前半は一致が多いが、後半は全く違う。『日本書紀』の 4 ~7 は讃岐(香川県)、播磨(兵庫県)、伊予(愛媛県)、阿牟(山口県)、水沼(福岡県)、火国(佐賀・熊本・長崎県)と中国・四国・九州地方の別や国造を生む結果になっているのだが、あまりにも整然と並んでいて作為的である。『記紀』には多くの皇子がワケなどの地方の管理者となったと書いている。

  • 『古事記』景行紀:それより餘の七十七王は、悉に國國の國造、また和氣、また稲置、縣主に別けたまひき。
  • 『日本書紀』景行四年条:七十余の子は、皆国郡に封させて、各其の国に如かしむ。故、今の時に当りて、諸国の別と謂へるは、即ち其の別王の苗裔なり。

これに対して、岩波文庫版『日本書紀』の補註 7-9 は次のように言う。

景行朝の皇子分封説話とワケ
別(ワケ)の語義については、分れた家の義とする説、吾君兄(わぎえ)・我君の意とする説、首長の意とする説などがあり、その性格についても、尊称説・官職名説などがある。本来ワケは、五世紀を中心とする時代の天皇・皇族につく称呼であったと考えられるが(例―隼別皇子・去来穂別天皇・瑞歯別天皇)、また諸氏族の姓ないし称号としても用いられた。播磨別・御村別・水沼別など、諸国のワケは、姓としては特殊なもので、むしろ称号といってよく、佐伯有清の指摘するようにやがて多くは主として君などのカバネを有するようになる。これらの氏はすべて天皇から分れ出たという伝承をもち、地名を名に負う地方豪族であることが特色で、畿内とその周辺から、西国にかけて分布しており、国造となっているものが多い。おそらくこれは、彼等が朝廷に帰服し、国家の政治的秩序にくみこまれていく過程で、朝廷からその王権につながる特殊な地位を公認したことの証として与えられた称号であったと考えられる。景行天皇の皇子・皇女八十子のうち、七十余子がみな国郡に封ぜられ、その別王の苗裔が諸国の別となったという景行紀の所伝は、天皇の九州・東国への巡幸説話、日本武尊の熊襲・蝦夷征討説話とあいまって、皇室による全国支配が景行朝に確立したことを具体的な表徴をもって示そうとして作られたものであり、またワケと称する氏族の称号の由来を、それによって説明しようとしたものと考えられる。従ってワケを名にもつ景行天皇の諸皇子も、これら氏族の系譜を皇室に結びつけ
るために生みだされたもので、本来の帝紀・旧辞には存在しなかったものと考えられる。

 皇子が「国造」になっているケースもあろうが、多くは地方の豪族が「ヤマト王権」に取り込まれて「国造」となっているのではないか?

「稲瀬入彦」については、整然としていない『古事記』の方が古い伝承を示しているように思われる。これだと彼は皇女の婿となって「ヤマト王権」のメンバーとなった。「ヤマト王権」は婚姻によってその勢力圏を拡大させていった。これは日本だけではない、世界中がそうなのだ。多くの場合、各地の豪族の娘を妃に迎えた。だが、その逆、豪族の男が皇女を妻とするも多かったと思う。ただし、『古事記』の系譜に従うと、「稲瀬入彦・稲瀬毘古」は何者なのか、まだつかめていないことになる。

 なお、『古事記』の系譜もかなり作為的である。たとえば、 7 の「訶具漏比売」は「ヤマトタケルの曽孫の女(むすめ)」とあり、これは非現実的である。「景行」の子に九州地方の名前が見えるが、『日本書紀』では「景行」が「熊襲退治」のために九州に行っているので、そのときの子と理解できる。一方、『古事記』では「景行」は九州に行っていない。この話の主人公は「ヤマトタケル」になっているのである。そもそも、『古事記』の「景行記」には「景行」の話がほとんど出てこない。「ヤマトタケル」の説話で埋め尽くされているのだ。「ヤマトタケル説話」がかなり影響を及ぼしている可能性がある。

明石国造

  • 大倭直同祖八代足尼児都弥自足尼。

「大倭直」と同祖の「八代足尼」の児の「都弥自足尼」を国造に定めたとある。この「足尼」は「スクネ」と読むらしい。埼玉県の「稲荷山古墳」から出土した鉄剣にはつぎの銘文が彫られていた。おもてだけ示すと、

  • 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

 これを読み下し文にしたものが発表されている。義江明子氏によれば、こうなる。

  • 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣の上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

 つまり、「多加利足尼」は「タカリのスクネ」。とすると「八代足尼」は「ヤシロのスクネ」つまり「八代宿禰」、「都弥自足尼」は「ツミジのスクネ」つまり「都弥自宿禰」だろう。だが、これらの名前を『記紀』で探すが、よくわからない。

では、つぎに同祖とされる「大倭国造」を調べておこう。

  • 大倭国造:橿原朝御世。以椎根津彦命。初為大倭国造。

「大倭国造」は「橿原朝」すなわち初代「神武天皇」の時に「椎根津彦命」を以て始めて国造とするとある。まず、「神武天皇の時」というのが問題である。神話の世界とも考える時期に「国造」の任命などあるものか? ところが、『古事記』の神武記を見ると、なんと出ていたのである! 「神武」の東征はなかなか進まず、日向より筑紫に移りそこで一年、安芸に七年、吉備に八年いた後、ようやく少し進んで「豊予水道」にさしかかる。

  • 古事記神武記:亀の甲に乗りて、釣しつつ打ち羽ぶき来る人、速吸門はやすいのとに遇ひき。ここに喚びよせて、「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神ぞ。」と答へ曰しき。また、「汝は海道を知れりや。」と問ひたまへば、「能く知れり。」と答へ曰しき。また、「みともに仕へ奉らむや。」と問ひたまへば、「仕へ奉らむ。」と等へ曰しき。故ここに稿機さをを指し渡して、その御船に引き入れで、すなはち名を賜ひて、稿根津日子さをねつひこなづけけたまひき。こは倭國造等の祖

 同じ話が『日本書紀』にも出ていた。

  • 日本書紀神武天皇前紀:速吸之門に至ります。時に、一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、招せて、因りて曰はく、「汝は誰そ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神くにつかみなり。名をば珍彦うづひこと曰す。曲浦に釣魚す。天神の子来でますと聞りて、故にが即ち迎へ奉る」とまうす。又問ひて曰はく、「汝能く我が為に導つかまつらむや」とのたまふ。対へて曰さく、「導きたてまつらむ」とまりす。天皇、勅をもて漁人に椎㰏が末を授して、執へしめて、皇舟に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦しひねつひことす。椎、此をば辞毗と云ふ。此、即ち倭直部らが始祖なり。

 これは「国津神」である。つまり「神武」が来る前からそこを支配していた族なのである。それと同じということは「明石国造」は「ヤマト王権」以前からの「明石」地域の支配者ということになる。

「国造本紀」や『記紀』からの情報はこんなものだろう。もちろん『記紀』にはもっと後世の情報があるはずだが、少なくとも始祖に関する情報は得た。では、つぎに移ろう。

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