播磨国造の謎(1)発端

 2025 年 2 月、私は「姫路城」の「大手前通り」と近世の「西国街道」の交点となる場所で一枚の説明板を見た。それがこれから語る古代史の探求の旅への入り口となる。「西国街道・山陽道歩き旅」に書いたところと一部重複するが、まず、ここから書きはじめることにしよう。

写真 1 国府寺家本陣跡の説明板

 ここはかつての「西国街道 姫路宿」の中央部にあたり、参勤交代用の宿泊施設として街道の宿場町に作られた「本陣」があった場所である。説明板は左に町割りとともに屋敷があった位置を示し、その右側につぎのように書いてあった。

 ここの通りは旧西国街道で、この場所には大名や勅使などが宿泊する本陣がありました。本陣を勤めた国府寺氏は、播磨国造の裔で、富姫の夫となった角野明國もまたその祖先といいます。また国府寺氏は幾度となく黒田官兵衛を、援けて転戦し、羽柴秀吉にも知遇を得て、江戸時代には町家・在所の代表である大年寄となり、藩主が初めて入城する前には必ずその邸に立ち寄るしきたりになっていました。しかし廃藩置県後、国府寺氏は藩主とともに東京に移住しました。

 普通なら、読み飛ばしてしまいそうな文章だが、いくつかの点に引っかかった。まず「播磨国造の裔」。以前に「千葉県」や「旧東海道」を歩いてきた私はあちこちで出現する「国造」に興味を持っていた。

 4 ~ 5 世紀、日本の各地に有力豪族が生まれ、ヤマト王権と結びつくものも相当数あった。それぞれが自分の勢力の及ぶ地域の「国主(クニヌシ)」だった。これから考えると「大国主」はたくさんの国をたばねた存在「オオ・クニヌシ」ということになる。ヤマト王権は国土の統一支配を進展させるべく、「クニ」という行政圏を設定し、その地域でもっとも有力な豪族を地方長官である「国造(くにのみやつこ)」に任命する制度を導入した。この「国造制」は遅くとも 6 世紀ごろまでには導入を完了している。

 しかし、その後、ヤマト王権の中央集権化が進んでいく。「大化の改新」(645 年)後には、各地の「国造」の「クニ」を分割・再編して「調(こおり)」を置き、国ー評ー里とした。「大宝律令」後は「調」は「郡(こおり)」となり、国ー郡ー里となる。「国」は朝廷から派遣される「国司(くにのつかさ)」が統治し、「郡」は「郡司(こおりのつかさ)」が政務をとった。各国に政庁である「国衙(こくが)」あるいは「国庁」が置かれ、その政庁の所在地を「国府」といった。「郡」にも役所が置かれ、これを「郡家(ぐうけ)」(「郡衙(ぐんが)」「郡府」ともいう)と呼んだ。「郡司」には、「国造」がスライドしている例が多い。

 ここ「姫路」は古代の「播磨国」にあたる。その「播磨国造」と「本陣家」が関係あるらしい。では「富姫」「角野明國」とはいったいなんだろう? 帰ってから、この疑問に取り組むことになった。

 まず、『日本歴史地名体系』で「国府寺」を引いてみる。この「国府寺」は「こうでら」と読む。「国府寺村」「国府寺町」がヒットした。両者をまとめてポイントを示すと次のようになる。

  1. 「国府寺村」は飾東郡に所属し、姫路城東の外曲輪の東、東市郷村の西に位置した。現在の姫路市京口町・城東町・城東町竹之門・城東町毘沙門・城東町中河原・城東町清水・城東町野田・城東町京口台・睦町にあたる。平安時代には「志深(しじみ)庄」とよばれていたという。江戸時代以前は「射楯兵主神社」近くまでを国府寺村と称したという
  2. 天正二年(1574)の『播州古所伝聞志(智恵袋)』に「志深薬師寺」の記述があり、薬師寺を「国府寺」といい、やがて村名となったという
  3. 14 世紀後半に書かれた『峯相記』に「志深庄国府寺事、(中略)志染(深)ニテ国務ヲ行ケリ、志染国符(府)此地也」とあり、「播磨国府」が「志深庄」にあったとする有力な史料とされる
  4. 「国府寺町」は姫路城東の外曲輪に位置する町人町で、慶長六年(1601)の町割までは「国府寺村」のうちであり、かつては「国府寺家」の所領であったという(大正八年刊「姫路市史」)。同家は中世には「志深」に政所を置いて国務を執りさらに「志深五ヵ村」を領していた。邸宅は城地付近にあったと伝え、慶長一四年本町に土地を与えられたという(同書)。もと「姫山」山麓に居住したが池田輝政の総縄張りで国府寺村の一里山麓(外京口門内)に移り、そのあと壱丁町を経て本町の街道筋に居を構えたともいう(姫路城史)

 なるほどすごい家である。中世には播磨国府で政務を行ったとあるから国司の一人だったのだろうか? だが、ここには「富姫」や「角野明國」は出てこない。今度は「富姫」で引くと、「刑部神社」がヒットした。

  • 古くから姫山に地主神として祀られていた神社。祭神の刑部大神については、光仁天皇の皇子「刑部親王」とその娘「富姫」の二神をさすというのが通説であるが、諸説があり不詳(姫路城史)。羽柴秀吉が姫路城築城にあたり刑部大神を姫路の町外れに移したが、所在がわからなくなってしまったのか、天正一一年(1583)新たに鎮札を受け長壁大明神として惣社(射楯兵主神社)に移した(「兼見卿記」天正一一年正月二七日条)

「富姫」は光仁天皇の皇子「刑部親王」の娘だとある。さらに「角野明國」を引くがヒットするものはなかった。

 さらに調べていくと、「国府寺」が太田亮氏の『姓氏家系大辞典 第三卷』に載っていることがわかった。つぎのように書かれている。

國府寺(コクフジ) 国分寺というに同じ。播磨の名族にこの氏あり。 飾磨郡国分寺より起こる惣社記録に「国府寺政所様云々」と見ゆ。伝説によるに、光仁天皇御宇、井上内親王・他戸親王と通じて、富姫(巻尼[尾?]姫)を生む。 事露れて、親王隠岐に流されたまい、姫は播磨国飾磨郡大領角野明國の許に養わる。 後・赦されて、姫を明國に賜る。 弘仁六年薨ず。 よりて姫路丘に葬る。『国内神名帳』に「播磨富姫明神」とあるは、これにして、国府寺氏は、この姫の後なりという。中澤利一郎氏いう、国府寺家は刑部造ならん。 夙に播磨国司に任じ、嗣子無きをもって、揖保郡司矢田部乙春を養いて子となす。 乙春の本姓は韓矢田部造にて、針間鴨国造と同祖崇神天皇皇子豊城入彦命の末なり。 三世孫御諸別命 (針間別稲背入命の子も、また御諸別命と称す。 一説に「国府寺家は景行天皇の裔なり」といえり。 針間、鴨二国の国造は、恐らく同祖にて、景行帝の後裔ならん) の孫現古君、征韓役において、韓蘇使主らを率いて帰る。 よりて本姓を賜う (姓氏録による。 蓋しこの時、姓を韓国造を賜い、のち仁徳帝の時、矢田皇女に仕えて、復姓となれるなり)。本居は鴨国神崎郡矢田部村にして、辛矢田部久家の時、揖保郡高明山に住し、のち揖保郡大領になると。
乙春は刑部氏を嗣ぎしが、平氏隆昌のため、一時廃絶せり。 この乙春は後世の国府寺家の始祖なるも、国府寺と称するは、徳道法師 (扶桑略記などに見ゆ。 揖保郡人辛矢田部米麿か) の裔にて、国府寺に縁故ありしに由れり。源氏の世になるにおよび、刑部氏は佐用庄白旗城主赤松頼則と結び、右近太夫景厚の時、頼則の子別所刑部頼清の女婿となり、国務を執るに至れり。貞和二年(1346年)、赤松貞範・姫路丘に居館を営む。 国府寺家はその祖神富姫宮、刑部宮 (按ずるに、国内神名帳に「姫道刑部太神」あり、木華開耶姫を祀る。 刑部氏の祖神なり。 この宮は、古来姫路在にあり、よりて城内鎮守神として、崇敬せられ、のち元盬町に遷し、長壁と改め、今日に及べり)を祀る。徳川幕府以後、城主交替あるごとに、その受授に参与せり。 後世、大年寄の筆頭となれり。槇男の時、明治二十一年〔1888年〕、東京神田今川小路二丁目に転居し、姫路の地は、千数百年継ぎたる最旧家を失うに至れり。こは二十九世次郎左衛門正就に子無きをもって、神吉頼治を嗣とす。 赤松則村十一世の裔なるが故なりと。

 いや、感心するばかりだ。見事な調査能力である。これによると、「富姫」は第 49 代「光仁天皇」の皇后である「井上内親王」と「他戸親王」の間の不義の子となる。先の「刑部(おさかべ)親王」は「他戸(おさべ)親王」の間違いのようである。ただ、この「他戸親王」は「光仁天皇」と「井上内親王」の間に生まれた皇子であり、実の子供と不義というのはおかしい。『国史大辞典』では「井上内親王」は宝亀三年(773)に「三月巫蠱(ふこ)大逆の罪に坐して廃后。同五月皇太子他戸(おさべ)親王は母である井上内親王の厭魅大逆の事がたび重なり、謀反大逆の人の子が皇太子であってはならぬという理由で廃太子された。同四年難波内親王を厭魅した罪を着せられ他戸親王とともに大和国宇智郡の没官の宅に幽閉され、同六年四月二十七日二人は同時に没した。五十九歳。藤原百川らによって毒殺されたと考えられている」とある、裏にドロドロした陰謀劇があるようだ。これで「富姫」の実在性が疑われるが、「井上内親王」に関係する皇女の一人だったのかもしれない。いずれにしても、伝承では姫は「播磨」に流され、「播磨国飾磨郡」の大領だった「角野明國」の許で養われ、そして「角野明國」と結婚する。その後裔が「国府寺家」だというのである。「富姫」を育てた「角野家」が「刑部造(みやつこ)」だったため、「富姫」は「おさかべ姫」とも呼ばれる。鎌倉時代初期に編纂された『播磨国内鎮 守大小明神記』には「姫路刑部大神」と「播磨富姫明神」が見え、古代より「姫山」に祀られ、地主神とされてきたが、現在は「刑部神社」として「射楯兵主神社」の中にあるとのこと。「富姫」に関してはいろいろな伝承があるようで、「兵庫県歴史博物館」の「姫山の地主神」に詳しく説明されている。また、「泉鏡花」の戯曲「天守物語」ではこの「富姫」が主人公だ。と、これは大体、理解できた。

「夙に播磨国司に任じ」とあり、「国府寺家」が国司だったことが示されている。問題はその後である。

「嗣子無きをもって、揖保郡司矢田部乙春を養いて子となす。 乙春の本姓は韓矢田部造にて、針間鴨国造と同祖崇神天皇皇子豊城入彦命の末なり。 三世孫御諸別命 (針間別稲背入命の子も、また御諸別命と称す。 一説に「国府寺家は景行天皇の裔なり」といえり。 針間、鴨二国の国造は、恐らく同祖にて、景行帝の後裔ならん) の孫現古君征韓役において、韓蘇使主らを率いて帰る。 よりて本姓を賜う (姓氏録による。 蓋しこの時、姓を韓国造を賜い、のち仁徳帝の時、矢田皇女に仕えて、復姓となれるなり)。本居は鴨国神崎郡矢田部村にして、辛矢田部久家の時、揖保郡高明山に住し、のち揖保郡大領になると。」

これはどういうことだろう? いよいよ「播磨国造」についての調査が始まる。

 

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