播磨国造の謎(4)播磨国の地形・郡区分を調べる

播磨国のデジタル地図

「播磨国造の謎」に迫るため、古墳や神社などの位置データを地図に入力して、いろいろな検討を行いたい。そのためには少なくとも地形情報が入ったベースとなる地図が必要だ。かつて私は「国土地理院」の「地理院地図」を使って、「香取海の地図」を作ったことがあった。その中の「自分で作る色別標高図」を使えば、好きなように標高を色別させることができるし、緯度・経度情報を含む一覧表を csv ファイルにして読み込めば、地図上に表示させることができる優れものだ。この進化版が「地理院地図 Vector」という名前で公開されている。かなり強力なので、今回はこれを用いて「播磨国地図」を作ってみた。

 まず「自分で作る色別標高図」を右側のカラーパターンのように設定してみた。古代は海の水位が現在より高かった。縄文期の水位差は 5 m と言われる。古墳時代は寒冷期に入り、もっと水が引いている。 3 m という情報もあるが真偽のほどは不明だ。試しに海抜 3 m地点までを水色に表示させることにした。ただ、「香取海」の場合とは違い、「播磨」は海抜が低い地域が少なく、大きな変化が得られない。それでも、これで埋め立て地などは除外することができた。

図1 地理院地図を使った播磨国の地図

 山と平地は識別できるが、川はあまりはっきりとは現れない。川のところを青色でハッキリさせたかったのだが、どう設定していいかわからないので、地図を画像出力した後、河川図を重ね合わせることにした。さらに、播磨国と他の国との境界線、郡の境界線、古代の街道(山陽道・因幡街道・出雲街道)のデータも重ね合わせる。この元図は「播磨広域連携協議会」の「播磨国風土記のコンテンツ」のところにある地図を使うことにした。このようにして「風土記当時の播磨国推定図」(図2)を作ったが、かなり手間がかかっている。やはり、QGISなどの本格的なGISソフトの方がいいだろう。

 図2を元に、「播磨国」の地形の特色、周辺国、郡などについて調べていこう。

地形の特色

「播磨国」の地形について整理すると以下のようになる。

  • 「播磨国」は東は「摂津」、東北は「丹波」、北は「但馬」と「因幡」、西は「備前」と「美作」の各国に接し、南は海に至る。
  • 「播磨平野」は中国山地の東縁に位置する「播但山地」と瀬戸内海の「播磨灘」の間にひろがる平野で、全体的に東高西低の地形を示し、東の「加古川」流域には「印南野」とよばれる台地が広がり、西の「揖保川」流域は沈降性(地面が海面に対して高度を減ずる)の地形を示し、海岸近くに小丘陵が島状に分布している。
  • 北〜中部は山地・丘陵地帯で、宍粟郡などの北部は森林が広がる急峻な山間部になっている。
  • 川は中国山地から発し、東から「明石川」「加古川」「市川」「夢前川」「揖保川」「千種川」などが流れ、下流地域に播州平野が広がる。図には「市川」の西に「大川」が見えるが、これは現在の「船場川」で、もともとはこちらが「市川」の本流だった。各河川の概要はつぎの通り。
    • 明石川:兵庫県中部、神戸市北区山田町藍那の山中に発し、神戸市西区押部谷町木幡の木幡駅の南で木見川と木津川が合流し明石川となり、平野町をへて、玉津町で伊川と合流し、播磨灘に注ぐ。流路延長 21 km。
    • 加古川:県下最大の一級河川。延長 96 km。支流は篠山川、杉原川、東条川、美嚢川など大小 130 に及び、流域面積は 1730 平方キロメートル。朝来市山東町地区と丹波市青垣町地区の境界にある粟鹿山(962 メートル)に発し、氷上盆地を潤して播磨に入り、加東市の闘竜灘でいったん河床が狭まるが、下流では加古川市、高砂市、播磨町に及ぶ広大な三角州を形成する。近世以降、高瀬舟による舟運を発達させた。
    • 市川:兵庫県中央部を流れる二級河川。朝来市生野町(旧但馬国)の三国岳(標高 855m)に発し、神崎郡を南下して姫路市で播磨灘に注ぐ。流路延長は約 70.7 km。早くから水田化が進み播磨の穀倉地帯の一翼を担ってきた。川は浅瀬が多いため水運はあまり発達しなかったが、河谷は但馬へ通ずる絶好の交通路となり、古くから「但馬街道」として利用されてきた。先述の通り、古代においては現在の「船場川」のルートが本流であったと考えられている。
    • 揖保川:兵庫県西南部を流れる一級河川。県の最高峰氷ノ山の南斜面に源を発し、たつの市などを経て網干(姫路市)付近で播磨灘に注ぐ。流路延長は約 70 km。流域の開発は古く「風土記」にも多くの記載がある。上流部では山崎、中流部では新宮・龍野、下流部では網干などが地方の中心として発達してきた。古くは上流では木材の筏流が行われ、江戸期には山崎まで高瀬舟が往来し、ことに龍野しょうゆの原料や製品の輸送でにぎわった。
    • 千種川:兵庫県西南部を流れる二級河川。兵庫・岡山県境の江浪峠に源を発し、宍粟市千種町から佐用町、上郡町を南下し、赤穂市で播磨灘に注ぐ。流路延長は約68km。流域には千種鉄を産した最上流の千種のほか、平福・佐用・上月・三日月・上郡・有年など「因幡街道」「出雲街道」「山陽道」の宿駅などがある。
  • 「播磨灘」は東は淡路島、西は小豆島で限られた海域であり、姫路沖にある家島諸島を除けば島はなく、明石海峡、鳴門海峡、備讃瀬戸でまわりの海域と結ばれる。海峡付近は潮流の浸食のため深いが、海底は全体として平たんで、水深はおおむね 40 m 未満である。

古代の街道

 地図上にもすでにいくつか現れているが、播磨には周辺国と結ぶ街道が延びている。主なものは下記のとおり。

  • 山陽道:「古代山陽道」は大和、後には山城から摂津・播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の諸国を結び、西海道(九州)の大宰府へと続いていた。播磨国内のルートはおよそ図2に示すようなものだったと推測されている。駅家は明石、邑美、賀古(加古郡)、佐突(廃止)、草上(飾磨郡)にあり、この先で因幡道・出雲道と分かれて、大市(揖保郡)、布勢(揖保郡)、高田(赤穂郡)、野磨(赤穂郡)と進む。
  • 因幡道:駅家は草上、越部、中川、佐用分岐で「出雲道」と繋ぐ。
  • 出雲道:佐用分岐で「因幡道」から分かれる。
  • 但馬道:播磨国と但馬国を結び中国山地を貫く南北の道。姫路を基点に粟賀、生野、竹田、和田山、八鹿、納屋、豊岡を経て城崎までの約 95 km。
  • 篠山道・播州街道:丹波口、篠山、姫路をつなぐ道。

播磨国は海上・河川・陸上交通の重要な結節点

 ここまで見てきた「古代播磨国」の特徴を一言で表すと、「海上・河川・陸上交通の重要な結節点」となる。南の瀬戸内海航路によって、ヤマトから九州までの地域とつながり、陸上では山陽道をはじめとする主要な街道が東西を貫き、さらに因幡道・出雲道・但馬道・篠山道(それに繋がる山陰道)によって日本海側とも結ばれていた。また、加古川、市川、揖保川などの大きな河川が内陸部への重要な水上交通路として機能しており、まさに四方へ開かれた水陸交通ネットワークのハブの位置にあたるのである。

郡区分

『続日本紀』の和銅六年(713)風土記編纂の命から期間を置かずに提出されたと考えられている『播磨国風土記』には、赤石(あかし)・賀古(かこ)・印南(いなみ)・餝磨(しかま)・揖保(いひぼ)・讃容(さよ)・宍禾(しさは)・神前(かんざき)・託賀(たか)・賀毛(かも)・美嚢(みなぎ)の十一の郡名があり、このうちの赤石郡とほかに赤穂郡の条文が欠けている。一方、延長 5 年(927)に完成した『延喜式』の巻二十二「民部省」に 12 郡が記載されている。国立歴史民俗博物館の「デジタル延喜式 Engi shiki Database」を見ると写本の写真とテキストデータを見ることができる。

山陽道 播磨国 大 〈管 明石 賀古 印南 飾磨 揖保 赤穂 佐用 宍粟 神埼 多可 賀茂 美嚢〉

三国造の支配領域

 以上、播磨国の地形、街道、郡区分について見てきた。では、「郡」という行政区分が作られる律令期より前に存在した「播磨の三国造」の支配地域はどこだろうか? 『日本歴史地名体系』の「播磨国」の項にはつぎのようにまとめられている。

平安時代初期に成立した「国造本紀」には、播磨には明石・針間鴨・針間の三国造があったとしている。古墳の分布と河川などの水系から考えると、明石は兵庫県最大の前方後円墳である五色塚
ごしきづか
古墳(神戸市垂水区)の存在する明石川流域に違いなく、この地域は海上交通と関係の深い海直が勢力をもち、のちに明石国造へと発展したと思われる。二番目は加古川中流域の賀茂
かも
郡を中心とする地域であり、この地域には玉丘
たまおか
古墳(加西市)や小野王塚
おのおうづか
古墳(小野市)が存在するが、この地域を支配した豪族としては山直が有力であり、のちに針間鴨国造に継承する。三番目は市
いち
川および揖保
いぼ
川下流域に広がる平野部であり、市川水系には壇場山
だんじようざん
古墳・宮山
みややま
古墳(姫路市)などがあり、揖保川の中流には吉島
よしま
古墳(新宮町)、下流域には輿塚
こしづか
古墳(御津町)がある。この地域には佐伯直が勢力を張り、大和政権の力を背景として播磨国造に任命され、のちには播磨鴨国造をしのぐほどの勢力となった。そのほかに同川中流域には「播磨国風土記」の説話などから、伊和大神を奉斎する伊和君の一族が早くから勢力をもっていたことが知られるが、その表徴として伊和中山
いわなかやま
一号墳(一宮町)がある。また「日本書紀」景行天皇二年三月条にみえる皇后播磨稲日大郎姫は、「古事記」景行天皇段によれば針間之伊那毘能大郎女とあり、吉備臣らの祖若建吉備津日子の娘と記すが、「播磨国風土記」に賀古
かこ
郡の日岡
ひおか
に造られたというその墓は、加古川下流左岸の日岡陵
ひおかりよう
古墳(加古川市)に比定されている。冒頭に引いた伝承と合せれば、この地域では早く吉備地方の豪族の勢力が伸びていた時期があったと考えられる。

 支配地域比定の根拠は、一つには明石川、加古川、市川の各流域(各国造の支配地)に、4世紀〜5世紀にかけて築造されたと考えられるその地域を代表する前方後円墳(それぞれ「五色塚古墳」、「玉丘古墳」、「壇場山古墳」)が存在し、その地域を支配した首長墓と考えられていること、並びに『播磨国風土記』の記述にもとづくようだ。およその支配地域を図3に示してみた。

播磨地方の地図に針間国造・針間鴨国造・明石国造の支配地期を示した。それぞれ市川と揖保川の間、加古川流域、明石川流域となる。
図3 針間国造・針間鴨国造・明石国造のおよその支配地域

『播磨国風土記』は前述のように和銅 6 年の元明天皇の詔により、諸国の産物・地形・古伝説や地名の由来などを記して撰進させた「奈良時代の地誌」であるが、現存するのは、完本の出雲と、省略欠損のある常陸・播磨・肥前・豊後の 5 か国のみである。「播磨国」で風土記が現存しているのはとても貴重なのだ。次回はこの『播磨国風土記』に「播磨国の国造」がどのように書かれているのか調べてみよう。

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