.jpg)
前回は「岡山県文化財CSVファイルから古墳一覧表を作る」を作成したところで終了した。文化財総覧WebGISを使って古墳の大きさや時代について、調べられる範囲で記入したのだが、とくに「時代」については不明なもの、おおざっぱに「古墳時代」と記しているものが多いのには驚いた。つまり、時代区分がきわめてあやふやなのである。モヤモヤした思いが残る中、最後に「この時代区分については、次回の検討としたい」と書いたのが 7 月 13 日。そのあと、私は「古墳」関係の本を読みあさって、古墳時代の区分と、それが西暦の何年に当たるのかについていろいろ調べ続けた。
古墳編年
古墳編年(相対年代)とは?
『日本大百科全書』の「古墳」のところに、「古墳編年」として大塚初重氏がつぎの様に書いている。なお「編年(chronology)」とは、過去の出来事を年代順に配列すること。つまり、古墳を古い順から新しい順に並べる「物差し」のことだ。
古墳は、墳形の違いのほかに、石室、石棺、木棺などの内部構造と、鏡や装身具、武器、武具、馬具、土師器 、須恵器など多くの副葬品の形式変化と組合せの変化とによって、時間的な移り変わりを分析して築造時期を決定し、編年の大系を整える。古墳は、前・中・後期という3期区分を採用する場合は、前期が4世紀代、中期が5世紀代、後期が6、7世紀代という年代観が与えられてきた。これに対し、3世紀ごろから7世紀代に至る詳細な古墳の変化を追い求めるために、より細かな年代観を物差しとする方法も用いられている。古墳を前・後の2期にわけ、前期を4小期、後期を3小期の計7小期に区分する方法である。(中略)近年、前方後円墳の墳形変化を基準に、1期~10期に分類する方法も行われている。
また、『国史大事典』では「古墳時代」の項で斎藤忠氏がつぎのように説明している。
古墳時代は普通前期・中期・後期、または前期・後期に分けられる。これらの時期の区分は、単に便宜的な区分でなく、古墳の時間的な推移に伴う特質をも考慮に入れたものであるが、前者の時期区分の場合は、前期はそのはじめから四世紀の後半の中ごろまで、中期はそれから五世紀の後半の中ごろまで、後期はそれから六世紀の中ごろまでとすることも一つの考え方である。後者の場合は、前期は三世紀末・四世紀初めから五世紀末までの約二百年、後期は五世紀末から七世紀末までの約二百年間を考え、さらにこれらをそれぞれ三時期に細分する考え方である。古墳時代を、さきに述べたように便宜飛鳥時代と区別すれば、むしろ、前・中・後期に分け、さらに飛鳥時代以降の古墳については終末期古墳という名称、あるいは飛鳥時代の古墳、奈良時代の古墳のような名称で呼ぶことがふさわしい。
諸説入り乱れる「細分化」の迷宮
読めば読むほど分からなくなってくるが、まとめるとこういうことだろう。
- 大まかな2区分:3世紀の末から7世紀にかけての400年間を200年ずつ「前期」「後期」に分ける。
- 一般的な3区分:さすがに大まかすぎるので、「前期」を「前期(4世紀代)」と「中期(5世紀代)」の二つに分ける。
ここまではいいのだが、さらに詳細な検討を行うために、どんどん細分化が進むと、はっきりと決まった説はなく、人によって意見が分かれていく。
よく本に出てくるのが、『前方後円墳集成』(近藤義郎編、山川出版社)に掲載されている広瀬和雄氏の10期編年(通称「集成編年」)である(下記の表1)。さらに細かく、和田清吾氏のように11期編年を提唱している研究者もいる(『古墳時代の王権と集団関係』(2018))。

上の表を見ると、埴輪・須恵器・副葬品・墳墓など様々な要素で古墳を分類していることがわかる。ここで疑問が浮かんだ。「それぞれの古墳や遺物が『古いか新しいか』は、どうやって判定しているのだろう?」 調べてみると、主に次の3つの考古学的アプローチ(相対年代の特定手法)があることが分かった。
- 1. 層位学的研究法(地層の重なりを見る) 「地層累重の法則」に基づき、より下の地層(古層)から出土した土器は古く、上の地層(新層)から出土したものは新しいと判断する、最も確実な方法。
- 2. 型式学的研究法(デザインや技術の変化を追う) 器の形や文様、作り方の変化を分析する。「須恵器 TG232型式 → TK73型式 → TK23型式」のように、デザインの変遷ルールを見出して細かい物差し(編年)を作る。
- 3. 伴出(はんしゅつ)遺物による比較(セットで出たものをヒントにする) 年代判定が難しい土器でも、同じ穴から一緒に出土した他の遺物(年代が判明している中国の鏡や木製品など)があれば、それをもとに年代を特定する。
遺跡から見つかりやすく、この「地層の上下」と「デザインの変化」を組み合わせやすいため、まずは土器の編年が基礎になっているようだ。日本の土器編年の精緻さは世界一とも言われており、また各地の土器と畿内の土器(中央)がどのように併行しているのかも把握されているのだという。
こう書くと簡単そうだが、実はここに大きな問題がある。「古い・新しいの順番(相対年代)」を決めただけであり、考古学の手法だけでは「西暦何年なのか(暦年代)」を知ることができないのだ。
古墳の暦年代を決める方法
これを決める方法として、和田清吾氏は『古墳時代の王権と集団関係』(2018)の中でつぎの3つをあげている。
- 国内資料
- 遺物に紀年銘がある場合(例 中国鏡と鉄製刀剣、たとえば埼玉県稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣など)
- 文献から古墳の被葬者が推定できる場合(例 大阪府高槻市今城塚古墳=継体天皇墳)
- 文献から建物の創建年代がわかる場合(例 飛鳥寺は「日本書紀」によると、崇峻元年(588)に百済からもたらされた仏舎利をまつるために建立されたとされるが、その創建前の包含層の上層からTK43型式の須恵器が出土)
- 国外資料(中国、韓国等の関係資料)
- 例 韓国の百済・武寧王陵の資料[大韓民国 1974]は、被葬者と追葬者の名前、没年、埋葬年(王 525年、王妃 529年)等がわかる一括資料
- 自然科学的方法
- 年輪年代法:出土材の年輪幅の計測に基づく
- 14C年代測定法(AMS法):炭素の放射性同位体、炭素14(14C)が窒素14(14N)に壊変する性質を用いて、遺物の生成年代を測定
和田氏が「現在わかっている関係資料」として挙げている20点は以下の通り(年代・資料・根拠の順に記す)。
- 184~189年:奈良県東大寺山古墳「中平年」銘金象嵌鉄刀(古墳自体は4世紀)/【根拠】紀年銘
- 235年:大阪府安満宮山古墳・京都府大田南5号墳「青龍三年」銘方格規矩織(他1面)/【根拠】紀年銘
- 238年:山梨県鳥居原狐塚古墳「赤島元年」銘対置式神獣鏡/【根拠】紀年銘
- 239年:島根県神原神社古墳「景初三年」銘三角縁神獣鏡、大阪府和泉黄金塚古墳 「景初三年」銘画文帝神獣鏡/【根拠】紀年銘
- 240年:山口県竹島御家老屋敷古墳、兵庫県森尾古墳・群馬県柴崎沢古墳「正始元年」銘三角縁神獣鏡、京都府広峯15号墳「景初四年」銘龍虎鏡(他1面)/【根拠】紀年銘
- 244年:兵庫県安倉古墳「赤烏七年」銘対置式神獣鏡/【根拠】紀年銘
- 244-260年:奈良県箸墓古墳前方部出土器等(AMS+日本年輪校正)/【根拠】AMS法
- (369年):奈良県石上神宮(「泰和四年」)銘金象嵌七支刀/【根拠】紀年銘
- 389年:京都府宇治市街遺跡(宇治妙楽55) ヒノキ製木製品(樹皮型) ※須恵器 TG232型式(他に多量の韓式系硬・軟質土器、土師器)が伴出/【根拠】年輪年代法
- 412年:奈良県佐紀遺跡(平城宮下層、自然流路 SD6030 上層)ヒノキ製木製品(樹皮型)※須恵器 TK73型式(他に多量の土師器、埴輪)が伴出/【根拠】年輪年代法
- 449-α年(450年代か):奈良県下田東2号墳(方形周溝墓) コウヤマキ製木棺底板(辺材型)、※須恵器 TK23 型式が伴出/【根拠】年輪年代法
- 471年:埼玉県稲荷山古墳「辛亥年」銘金象嵌鉄剣※くびれ部須恵器 TK23-47型式が伴出、 熊本県江田船山古墳「獲□□□鹵大王」銘銀象嵌鉄刀※造出周濠須恵器 TK23型式が伴出/【根拠】紀年銘
- (503年):和歌山県隅田八幡宮「癸未年」銘人物画像鏡/【根拠】紀年銘
- 525年:韓国公州市武寧王陵・王「乙巳年」埋葬/【根拠】紀年銘被葬者
- 529年:韓国公州市武寧王陵・王妃「已酉年」埋葬/【根拠】紀年銘被葬者
- (527年):福岡県岩戸山古墳-推定筑紫君磐井/【根拠】被葬者
- (531年):大阪府今城塚古墳-推定継体大王/【根拠】被葬者
- (588年):奈良県飛鳥寺(下層)※須恵器 TK43型式が伴出/【根拠】寺院
- 608年:兵庫県錢谷2号墳「戊辰年」銘銅象嵌鉄刀※須恵器 TK209型式が伴出/【根拠】紀年銘
- 616年:大阪府狭山池コウヤマキ製樋管(樹皮型)※直前に須恵器 TK209型式の窯・後の堤の外側斜面に TK217型式の窯が伴出/【根拠】年輪年代法
暦年代の決定に使えそうな資料はこれだけなのである。年代の古いところは年号が書かれた剣・鏡の出土に基づくものが多く、特に眼を引くのが「三角縁神獣鏡」である。この紀年銘のある出土品の場合には、剣にしても鏡にしても、ほんとうにその年に作られたものなのかという疑問が残る。もしそれが正しいとしても、必ずしもその年の直後に副葬されたとは限らない。どのくらい経ってから副葬されたか、そこには推測が入るので確定的な証拠とはいいがたい。陵墓の被葬者もハッキリと分かっている訳ではないから、文献から求めるのも難しい。埼玉県稲荷山古墳「辛亥年」銘金象嵌鉄剣の銘文中の「獲加多支大王」が雄略天皇にあたるとして、「辛亥年」471 年説が有力視されているが、これも絶対確実だというわけでもない。という具合に、暦年代の比定はかなり難物なのである。
ここで特に目を引くのが、7番目の「箸墓古墳(AMS法)」だ。2011年、国立歴史民俗博物館(歴博)の春成秀爾氏らは「14C年代測定法(AMS法)」を用いて「古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦 240~260 年と判断した」と発表した(国立歴史民俗博物館研究報告第163集2011年3月)。「箸墓古墳」は表1の古墳編年で、1期の標識古墳になっている重要な古墳であり、この古墳の出現をもって「古墳時代」の開始とされることが多い。では、AMS法が発表された2011年より前では、「箸墓古墳」の建造時期はいつ頃と見積もられていたのだろう?
1995年に出版された『全国古墳編年集成』(石野博信編、雄山閣出版)という本がある。52人の考古学者が全国の古墳の編年をまとめたものだが、なんと時間軸が西暦(200~700年)で表示されているのである。本の最初を見ると「各古墳の年代観は各執筆の考え方であり、全く統一していない」と書かれている。この本から執筆者が「箸墓」の暦年代をいつと考えているのか読み取ってみよう。「箸墓」は全部で16回登場している。それぞれの箇所の「箸墓」の西暦年を読み取ってまとめたものが表2である。推定年の値は255~310年まで55年の開きがあり、加重平均は290.6年、最頻出年は295年であった。「歴博の240~260 年」は従来の考え方から約50年遡ったものだということがわかる。
表2『全国古墳編年集成』にみる箸墓古墳の暦年代
| 箸墓古墳の暦年代 | 255 | 275 | 280 | 290 | 295 | 305 | 310 | 合計 |
| 執筆者数 | 1 | 2 | 1 | 3 | 6 | 1 | 2 | 16 |
一方、さきほどの表1の右側に、広瀬氏、松木氏による10期編年を西暦に換算する考え方を示した。ともに「箸墓」を標識古墳とする1期の開始を250年当たりに置いている。ともに2011年以降の発表なので、「歴博」の発表の影響を受けている可能性が否定できない。
ようやく科学的な裏付けを持った「編年表」が生まれた!と思えたのだが、この発表の後、考古学界を揺るがす大論争が巻き起こったのである。
250年という時期が邪馬台国の時代とも重なっているため、論争はなかなか収拾がつかないようだ。
私はさっさとこの年代問題を仕上げて、地理院地図を使った分析に入りたかったのだが、そうは問屋が卸さない。次第にこの大論争の渦中へと突入していくのである。
(次回につづく)

